九十一 公衆電話 (軽井澤新太)
目の前に暗い闇がございます。私はやはり手足を縛られ、口には蝶番のように声を出せないような束縛を受けております。そしてその目の前に私の愛する娘が苦悶の表情で苦しんでおるのでございます。断続的に類似の光景がただただわたくしを冒しております。
その昔、この国では死刑と言うものが市中で行われておりました。有名な石川五右衛門は親子同罪、自分の息子含めて熱湯にて煮殺された、と言います。京都の三条河原では、極悪人のはずの五右衛門が今際のその間際に、意識が尽きるまで自分の息子を諸手を挙げて熱湯には触れさせずまま落命したのが、その頃の江戸雀には切なく人情話となりました。もちろんほんの少しの時差で、子供も同じように五右衛門の茹死の上で、命落したのでございます。
命をかけてでも、この網膜に記録したくないのが、我が子の苦しみでございます。我が子の絶命を、眺めさせられることほど恨めしい心はございますまい。
わたくしの脳内の異常は消えぬままであります。油断をして目を閉じれば、わたくしの瞼の裏側が愛する娘の悲劇を映します。なぜか、あの守谷周辺の思惟がわたくしの脳髄の中枢に、その発光を指令するのです。白黒の過去にカラーテレビのような色が色づくのです。雑な、昭和の赤や緑の色彩が小さなブラウン管のテレビの上で粗く揺れるのでございます。
「紗千、頼む、これは幻の苦しみなのだ、どうか、お父さんを許しておくれ。。」
わたくしは、妄念に妄言を重ねながら、一向に雲晴れぬ気分のまま伏せっているくらいしか出来ぬのです。
その時でした。
脳裏をつき刺すような、散乱音とともにわたくしの電話が鳴りました。これは、いつも現実に聴き慣れた音でございますが、悪夢の最中では、霊的な別次元的な冷たさで鳴り響くようでした。
わたくしはじっと目を開けました。
そこは、新宿の雑居ビルなどではなく、明確にわたくし一人が暮らす四ノ橋の一室でした。悪夢が現実でないのだということが腑に落ちてきます。小さく安堵しながら少しずつ、耳と体をそちらに近づけていきました。
電話には、通知不可能の表示がございます。
私は直感でこれは何か重要な電話だと思い少し緊張して、椅子に座り直し、ゆっくりとその電話を前に取り、青のボタンを押しました。まだその時にはその前の悪夢と脳裏に浮かんだ苦しい映像が網膜に残っていたと思われます。
「あんたか?」
私の予想は当たりました。この二日間待ち焦がれていた声が受話器の向こうでいたしております
「俺だ。」
「やっとつながりましたね、風間さん。」
「ほう、俺を探したか?」
「ええ。約束でしたので、一昨夜も事務所で、お待ちしておりました。こちらからも着信を入れたとは思いますが。」
私は自分の精神状態を気づかれぬように努めて冷静に言葉を選びました。言葉が汗をかかぬように、受話器口で風間に悟られぬように、呼吸音をさせない深呼吸を挟みながら。
電話の向こうでは、公衆電話らしきブザー音がいたしました。風間はわざわざ、自分の携帯ではなく、公衆電話からかけて寄越していました。
「公衆電話ですか?」
「……。」
沈黙の向こうでは国道沿いなのか、トラックが通り過ぎるようなごごうんごごうんという重低音が鳴っていました。
「電話に何かありましたか。しばらく電源が入ってなかったようでしたが。」
「あんたには関係のないことだ。」
「この後お会いして話しますか。」
「そんな状態ではない。」
「状態?」
わたくしがそう聞き返すと、沈黙がありました。
電話をかけてきたにもかかわらず、しかも携帯電話ではなくわざわざ公衆電話からかけてきているのにもかかわらず、風間は特に私に何か用事を言い出そうとはしません。たまらず、わたくしの方から質問をいたしました。
「風間さん。電話に、ずっと出ない、電源さえ切っている、のはなぜですか。何かありましたか?」
質問をしながら、わたくしは風間との電話が切れてしまわないように、会話の押し引き想定しました。話して、確認しなければならないことが多数あるのです。たとえば、
・風間と守谷の繋がり
・アルファベットについて
・葉書の消印の意味。
・何故隠したり警察を嫌うのか
・誰かに恨まれているのか。その心当たりは
聞かねばならないことは山ほどあります。
ただ、唐突にこれらを質問すれば、露骨に嫌な顔をするでしょうし、そもそも電話が切れてしまう恐れもございます。
「風間さま。わたくしの方でも、いろいろなことを話したいのです。」
「なぜだ?俺はまだ金も払っていないぞ。あんたら探偵は金には厳しいのだろう。」
「……。」
その通りです。通常なら二度と電話は致しません。しかし、いまはそんなことを言ってはいられない、追加の災厄がわたくし達には始まっていますので、不本意にも対処してるのです、とまではわたくしも流石に言いませんでした。
「いまから、お会いして話しませんか?」
「悪いが、その状況じゃない。」
「お仕事のトラブルですか?」
「ちがう。それより、逆に、何か進展はあったのか?それが聞きたい。」
「ありました。」
わたくしは、そう言い切りました。守谷のことも十分に進展したと言えるからです。
「あった?ほんとうか?。」
「ええ。ありました。かなり大きな動きがあったのだから、お話をしたいのです。できれば会ってが良いです。」
風間は、沈黙しました。
わたくしは、突然切れてしまいそうな公衆電話が怖く、自ずと言葉をつなぎました。
「わたくしと会うこと自体が、なにか問題なのですか?」
「そうとまでは言わないが、な。」
「そういう意味でなければどういう意味でしょうか?わたくしと会うことが問題になるような、事情が発生したりしますか?」
わたくしはしつこくなる自分の言葉を、気にいたしました。風間は猫の死体の被害を訴えているだけです。殺されそうになった守谷の側の感覚とは違うかもしれません。
「いかがですか?」
「とにかく、いまは、無理だ。」
「昨日今日、電話の電源をお切りになっていたことと、関係しますか。」
「……。」
「何かから逃げていると言うことでしょうか。いまは西馬込でしょうか?」
「もう猫の死体はこりごりだ。」
「西馬込ではない、ということですか?」
「ああ。ただ、家を出てからずっと誰かに付けられている気がしてならない。」
「尾行ですか?」
「わからん。なんだか、自分の行く場所にまた、猫の死体が届くような気もする。いや、猫よりも、もっと恐ろしいかもしれない。」
「携帯電話の電源を落とすのはそれが理由なのですね。」
風間はわたくしを避けていたのでなく、別の恐怖を避けて逃げているようでした。逃げた結果、尾行の恐怖から携帯電話を疑って、公衆電話からかけている。そのせいで電話の電源も切っているようでした。
わたくしは少し気が弾みました。電話で会話をしているうちになぜかこちらが主導権を取れるような気もしたのです。その後しばらく一定の風間特有の不毛な応酬を終えたあたりで、わたくしは、畳み掛ける気になりました。公衆電話です。いつ十円玉が終わりになるかもわかりません。会えないのなら電話で聞けることは聞いてしまいたいのです。
「風間さま。」
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