九十 機械計算 (レイナ)
施設の人たちは笑顔になる時があった。
でも、その笑顔には目的があった。
大人たちはレイナになにか目的を持って会話をする。
上司への報告みたいなことがあるのだと思った。
そういうときは、レイナはその大人との会話を閉じた。
お仕事の質問がわからないとでも思うのか?
子供は大人を理解していないと思うのか?
レイナは命令の中で嘘を心に宿す大人が嫌だった。
嘘つきだとは思わないけど、仕事なのだ、というあの顔だ。
あの顔ほど自分を寂しくさせるものはない。
会話をするだけで反吐が出る。
だから、節子さんは貴重だった。
唯一無二で、節子さんだけは、そうならなかった。
節子さんとの時間はちがう。
長い時間が過ぎた今、レイナには節子さんとの思い出したい場面や言葉、声が溢れている。思い出したい、って明確に思える。真っ黒で灰色の過去に、夜空の星のように瞬く光点。優しい笑顔と厳しさと。本当の母親を思い出せない頃に、本当の母親という言葉にレイナは憧れがあって、なぜかその周辺のことを考えると、カレーライスの匂いがしてくる。カレーライスの味を覚えている。母親の記憶って料理の味なのかもしれない。あの匂いを脳裏に思いだす。
どうして、一度だけでも、節子さんを抱きしめなかったんだろう。
大好きだった。
節子さんはレイナが嫌がることだとわかれば、何も聞かなかった。レイナの嫌な質問には笑顔で対処してくれるのに、その逆は一切なかった。どんな会話の中でも、レイナのことを思ってくれていた。レイナの求める世の中のことを本当にたくさん、話してくれた。教えてくれた。街のこと。人間のこと。悲しみのこと。やってはいけないこと。ありがとうといわれること。その周りの悲しみのこと。人それぞれに生きること。自分だけの喜びじゃないこと。カレーライスを食べること。
「手をだして。ほらここに、繋いでご覧。」
「……。」
「そうして目を瞑って。」
「……。」
「ほら人間って、単純に生きてるんだよ。呼吸して、血液を流して、心臓から出た血液を、自分の心臓に全身を回して戻すの。それをするために呼吸して、酸素を取り入れてね。でも不思議じゃない??こうやって手を繋いでも体の中のものまで誰かの手のひらから外に出ないでしょう?」
「どういうこと?」
「こうやって手のひらで相手を感じて、熱や温もりや生きてることを感じるのに、自分の何かが外に出ては行かない。相手の何かも自分まで届かない。」
「レイナの血液は節子さんに行かないってこと?」
「そうよ。みんな、ひとりずつ生きているの。」
「うん。」
「でもね、手を繋ぐと、少し違う気持ちになれるでしょう。家族がいる人には最初から自然とそれができるの。でも、家族がいない人も、こうやって手を繋ぎ始めればわかることなの。」
節子さんはそれを、難しい言葉で「人間社会」だって言った。
「言葉とかね、パソコンの中だけでもいいけど、人間は手と手を繋ぐと違う気持ちになれる。こうやってね。手を繋いでみるのよ」
「こうやって?」
「握手。」
「あくしゅ?」
「そう。同じ人間なんだって感じてみるの。あいても、自分の血だけで生きる、ひとちぼっちなんだって、わかるの。」
「ひとりぼっち?」
「そう。みんな楽しく群れていても、自分の血は自分の体だけにしか流れていないの。」
「だから握手するの?」
「そう。そのとおり」
「わかった。」
いくつかの会話を覚えているけども、この握手の話は好きだった。レイナの掌には、いまもまだ節子さんと何度も繋いだ手のひらの感覚が思い出せる。掌にそれを思い出しながらキーボードを叩いている時が一番無心になれる。
*
いま、レイナは現実のMacBookの画面を見ていた。
キーボードを叩く手のひらに、心地よいリズムが続いている。
作業に入るのは深い井戸に一人降りていくのに似ている。レイナは没頭する。一時間でも二時間でも井戸の底に潜って、いくつかの命令文(スクリプト)を考え直し繰り返し試す時間こそが楽しみなのだ。機械学習周辺の複雑な構造を設計しては、機械への計算命令を書き直す。人間が一生を費やすであろう計算を機械にさせて瞬時に答えを出させ、その仮説を検証する。いつもなら、数回の作業でなんらかの結果が出てくる。そういう結果を狙うようにレイナは(ハッカー)は命令文(スクリプト)を作る。
しかし、今回の仕事はなかなか思い通りに行かない。
風間、守谷という二人の人間の周辺の相関性はいまだ見当たらない。
十四枚の葉書の文字列も仮説さえ定まらない。
随分とうまくいかないな、とレイナは思った。
理由はいくつか思い当たる。
不自然な点の一つ目は、風間と守谷の二人に全く犯罪者の証拠がないことだ。すでに平成の全体まで過去へ遡っているが、インターネットの上では明らかに、彼らは犯罪者ではない。
二人は警察との接触を強く拒んでいたという。犯罪者でもないのに警察を拒むことは考えづらい。普通、犯罪の履歴があるはずだ。しかし、二人のアカウントは警視庁のどの犯罪情報にも関連しなかった。
不自然の二つ目は、犯罪組織と紐づかない点だ。猫の死体や、腕を切断するまでの私刑、悪意に満ちた手書きの葉書のどれをとっても、誰か一人で起こしうる作業量を超えている。あきらかに組織かそれに準じるものが動いている。組織が動く場合、レイナがネット上で構築した情報網が反応しない事はほとんどない。その組織が起こした別の事件に類似したり、同じデバイスが使われたりするからだ。しかし、方法をあれこれと試しながら随分と調べているが、どうしても紐付かない。
少し良からぬやり方も使って、スマホも調べたが、これもレイナの予想を裏切った。風間、守谷の二人とも組織犯罪者が多用する即日携帯(ワンタイムデバイス)を使っていない。むしろ普通に銀行口座も持ち、車の免許証も持ち、それらを携帯電話のアカウントと連携させている。
計測の結論として風間と守谷は犯罪者でもなく、犯罪組織に関連もしなかった。
あくまでネット上の情報を追求する限りでは、そうとしか言いようがなかった。
二人が犯罪者であれば、そのデータを使って葉書のアルファベットの文字も計算ができると思っていた。結果、何一つ計算が進まず、仮説さえできない。計算の結果は、惨憺たるものだと言ってもいい。
ただ計算の最初から生じているバグともいうべき、とある計算結果は引き続き消えないままだった。風間もと守谷の名前とは関係しない形で、とある事件だけが反応を微細ながら繰り返している。
その事件は平成ではなく昭和の時代のものだった。いや、正確には昭和が終わり平成に時代が変わるそのころの日本を震撼させた類の事件だった。
実は、レイナはその事件が嫌だった。ただ、嫌だとわかっていながら、軽井澤さんとの仕事ということもあり、結果を無視し切ることもできないままでいた。