八十九 湯島喫茶 (銭谷警部補)
夏が走って逃げようとしていた。
わたしは石原と湯島の喫茶で待ち合わせた。
太刀川の尾行を一旦終えた石原から連絡があり、本庁に向かう前に少しだけ会おうというのである。老刑事又兵衛と日比谷で別れてから本庁に戻る気になれなかった。石原に聞くと、太刀川を尾行し北千住から千代田線で霞ヶ関に向かうところだという。わたしは湯島という場所を提案した。お互いの中間点だという説明だ。
その喫茶店は、アメ横から池之端沿い、湯島側に入った繁華街の西の端にある。雑居するビル同士の間が狭く、車どころか自転車さえ通れない、そういう路地から階段を上った三階である。
好きな喫茶店だった。
初めてこの街を歩いた人間がこの喫茶店に入ることはないだろう。
客層が大人しいのが良い。声を上げて詰まらぬ会話をする客が少ない。ほとんどが独り客だ。複数で来て会話するとしても、周りと調和できる客が多い。あの狭い路地を自分の目で確かめてそれなりに、判断した人間だけが、この重い扉を開けるからかも知れない。
「よくここはお使いになられるんですか?」
石原は室内に調和した声で、真っ直ぐ聞いた。
「いいや。なぜだ?」
「ちょっとした偶然が、ありまして。」
特別な時か、もしくは一人きりになりたい時だけ使うようにしている、と言う素直な言葉はわたしから出なかった。声に出なかった言葉は死体の持ち物と変わらない。
「たまに使う程度だ。」
わたしは強がった。
「なるほど。たまになんですね。」
「何かあったか?」
石原が気になるような風情をしたのでそう聞いた。
「いいえ。さほど意味はないかもしれないので、後ほど申し上げます。それと、」
「…なんだ?」
「早速買われたんですね。」
「ああ。昨日秋葉原で。」
「番号を教えてください。」
わたしは自分の携帯の番号を書きとめたノートを取り出そうとしていると、製品を手に取った石原はそれを手で動かしながらすでにわたしの番号を画面に映し出していた。
「大丈夫です。登録しました。」
「すまない。」
「素敵な喫茶店ですね。」
石原は、珍しいものを眺めるように喫茶室の天井や壁を見ていた。店主の趣味で、小豆色のフェルトの壁には所狭しと画鋲で映画のポスターが貼ってある。その映画もどれもが単館上映の誰も見たことがないような映画ばかりだ。大勢の人間が知ったものには、陳腐な匂いが漂うから、というような、店側の意思があるのかどうかは聞いたことがない。
「毎回酒を入れて、ウィルスの多そうな立ち飲みでフラフラ話をするほど若くはない」
「座れる居酒屋もあるかもですが」
「酒を飲まない打ち合わせも、わたしは重視している。ホットコーヒーとチーズケーキ。」
わたしは、石原里美に喋りながら、店員に同時に注文をした。女性がお決めになるまでお待ちが出来ない性質がまた露見していた。紳士の国に申し訳ないと思った。
「コーヒーとチーズケーキが最高だ。酒は出ないがうまいパスタはある。十五時までだな。」
「ありがとうございます」
「仕事の話を、いそごう。」
石原里美は、その時じっと私の方を見つめて
「私はあの、ホッピーの店でしたっけ?ああいうのも、嫌いではないです。こういうのも、好きですけど。あ、私はコーヒーをアメリカンで。」
店員は、決して大きくはないが、よく通る石原の声に無言で頷きメモも取らずに歩き去った。美しい間合いだった。
「早速よろしいですか。」
「ああ。頼む。」
「驚きました。今日は、いきなり、太刀川は埼玉に行ったんです。」
「埼玉?」
今日は、という言葉の方も気になったがわたしは埼玉の方を先に聞いた。
「銭谷警部補。彼にとって埼玉は、普通のことですか?」
質問は、わたしのかつての太刀川への尾行を指しているらしい。そう。わたしも尾行はしていた。もっともそれはまだわたしに権限があり、そういう部下を動かせた頃、つまり五年近く前のことだが。
「埼玉は、初耳だ。」
「埼玉は初耳なのですね。」
「ああ。だが、当時も毎日尾行できた訳ではない。元々埼玉に絡んでいたのかもしれないが、把握はできていない。」
「なるほど。霞ヶ関で乗り換えたあと太刀川は千代田線でそのまま日暮里綾瀬方面に向かい、北千住でつくばエクスプレスに乗り換えました。慣れた様子で進んでいたので初めての路線ではないと感じました。」
あの、と言う間合いで、わたしを石原里美は見た。
「電車はお詳しいですか?」
「路線図は頭に入っている。そもそも寮がその方面だ。常磐線の方が詳しいのだが。」
「なるほど。寮が金町でしたね。」
「……。」
「つくばエクスプレ…、この電車は、秋葉原始発で北千住を通ってそのままつくば学園都市まで行く比較的新しい路線なんですが。」
「ああ。」
その新しい路線はわたしの住む金町の方角とは少しずれる。茨城へつながる電車と言えば常磐線一本だったけれども、筑波新線は、新しい人々がそっちに向かったような印象だけがあった。この説明は、東京の北東の方角に興味がなければ永遠に理解はされずらいことだが。
石原里美は尾行の説明を続けた。
曰く、つくば行きの電車に乗ったものの北千住から二つ目の駅で太刀川は降りた。つまり茨城県まではいかない、その手前の埼玉で降りたと言うことだ。つくばエクスプレス自体は各車両の座席が埋まるくらいの人間がいたので、尾行はそれほど負担ではなかった。ただ、駅を降りてみると(八潮という駅だった)東京と違い埼玉は人通りが明らかに少なかった。駅を離れたらすぐ住宅街で人が歩いていない。尾行は危険と判断して今日は手仕舞いをした、らしい。
「さすがに住宅地で、ずっと同じ人間が後ろにいては、目立ってしまうな。」
私は適切だと思ったのでそう言った。
「すいません。」
「いや、謝ることではないだろう。埼玉か。少し、らしくないな。」
「らしくない?」
「元々、地下鉄に朝乗り、大体、そのままいずれかの地下鉄の駅で降りる。そのまま散歩をしたり喫茶店などに入る。そして午後からは、政治家とか、財界の人間に会っている。あの頃はそういう印象だった。」
「なるほどです。という意味では埼玉はそういうことではなさそうですね。」
「うむ。埼玉まで行くのは想定にはなかった。」
そこで少し沈黙した後、石原は首を傾げながら、
「埼玉と少し離れるかもしれませんが、そもそも太刀川にはなにか違和感がありますね。」
「どうした。」
「いや、かれはすべての連絡手段を持たないので。」
「……。」
「人に会うときに不便なのに、大変だろうなと思うのです。私などは、電車も地図も全部このスマートホンを見なければ辿り着けないですから。」
「それは大袈裟な話だろう。」
「いや大袈裟でもないです。」
便利さで失うものがあるぞ、と、中年の反駁を喉の手元に置いたまま、わたしは久しぶりに、太刀川を追跡できる喜びを感じていた。捜査進捗を目的とした会話は今のわたしには有難い。やがて届いたコーヒーの漆黒のさざなみを手前に寄せながら、わたしはいくつかの太刀川の違和感について自由な間合いで言葉を並べた。
意見交換がしばらく続いたあと、ふと石原の最初の言葉が戻ってきて、
「そういえば<偶然>と言っていたが、湯島に何かあるのか?」
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