八十四 渋谷 (レイナ)
レイナは節子さんと再度外出をした。
電車とバスを乗り継いだのを覚えている。山沿いにある施設からバスで近くの街に出て、それから電車随分長く乗った。どんどん人が増えて、そうして、
「ここは渋谷って言うの。」
手を握ったまま節子さんが言った。別に、渋谷という街に何も感じなかった。人がたくさんいることとか、建物が空に向かって争うように生えていたり、地下鉄という電車が空中を走ったりしていた。暑い夏の日だった。
節子さんの手を握っている時、ふと違和感があった。
そう。
ある存在が来る時に、何か微妙ですごく少ない電子が節子さんの手のひらに生まれている感覚とでも言おうか。最初それがわからなかった。でも何かの電気が走る。少しして気がついた。
母と子供だった。
母親と子供が一緒に近づくと、節子さんの手のひらに力が入るのだ。
(節子さんはなんで子供がいないの?)
レイナは、その言葉を残酷に何度も投げたのを思い出した。節子さんに走る、微細な電子がある。ああ、自分はひどい質問をしていたのだと思った。その電子が節子さんにとって何かの苦しみなのだとしたら、自分は最悪だと感じた。
同時にレイナにまた別の感覚がきた。
同じように母親が子供を抱いて歩く姿を見た時に、自分にも何かの電気信号が来る。節子さんのものよりずっと暗く重底な憂鬱さだ。最初はそれが何かわからなかった。熱や発汗があった。強い耳鳴りもきた。母親が子供を連れている場面が、なぜか、風景の中でねじれる。歪んでいく。
原因が分かった。
それは、母親側が子供を見つめている瞳だった。母が子供を見つめるその瞳を見てしまうと、何かおかしくなる。
レイナは、急に歩けなくなった。
どうしたの、とも言わずに、節子さんは、ゆっくりとレイナの横に一緒に座ってくれた。何か同じ恐怖を、母親と子供の一対があるたびに自分達は共有している。いや同じではないけども偶然波長の合う恐怖を共有している。
「こういう街は、初めてだからね。ゆっくりと、慣れていけばいい」
びっしょり汗をかいたレイナを節子さんは、無言で強く抱いてくれた。手を握って、束の間も離さない抱擁の強さがレイナには救いだった。
その日はそのまま何もしないで真っ直ぐ施設に帰った。
その夜もカレーライスを食べた。
節子さんは晩まで一緒にいてくれた。
「節子さんはどう思う?」
「どう思う?」
「レイナのことをどう思っている?」
「どう思うって、こうやって毎週会いにきてるわ」
「でも」
節子さんとの会話で、話さないことに決めている場所がある。
なぜ自分には親が会いに来ないのか。
そもそも親がなぜいないのか。
家族がいないまま、一人で暮らすのは、なぜか。
そういうことは、いつの日にか節子さんとゆっくりと大人のように話してみたいなと思った。レイナが自分の過去かもしれない事が書かれたインターネットのページを眺めても気にもしなくなった未来に、どうでもいいお菓子とかでお茶をしながら、ゆっくりと。