八十三 蛻の殻 (御園生探偵)
軽井澤さんと僕は、焦燥感にかられながら田園都市線池尻大橋の駅を出た。病院まで何か悪い予感がして、ずっと小走りのままだった。
予感は当たった。
池尻病院は午前早朝のこの時間も警備(セキュリティ)などなく、昨夜の守谷の部屋へは誰でも出入り可能だった。
部屋に入ったところで、軽井澤さんと僕は息をのんだ。
「ずいぶん早い脱出ですね。」
部屋には誰もいなかった。
ある意味、どこか心の中で予想をしていたけれども、言葉に出せないでいた展開だった。
「携帯を鳴らしてみますか。」
「そうですね。ただ、覚悟して逃げたはずですからまあ、厳しいでしょうね。」
僕は自分の携帯を取り出し、メモをした守谷の番号を鳴らした。もぬけのから、となった室内で寂しく僕の呼び出し音だけが続いた。鳴るけれども出ない。軽井澤さんと僕の間に、策尽き果てた空気が漂った。
「困りましたね。」
「とりあえず、昨日拝借したこちらだけ、病院に預ける形で返しておきましょうか。コピーは取ってあります。」
僕はそう言って、十四枚の葉書の原本を鞄の中で指さした。
「そうですね。何か変な嫌疑をかけられても困りますからね。彼がタクシーにでも忘れていたという、説明にでもしておきましょう。」
我々が、小声でいくつかの会話をしているのがようやく気になったのか、廊下を歩いてきた四十過ぎの看護婦がこちらを少しだけ気にしたので、
「すいません。我々、昨日の守谷さんの知り合いのものですが。おそらくこの病院でしばしばお世話になっている守谷さんだとおもいます。」
そう言って、軽井澤さんと用意した作り話のままにその葉書を返した。彼女は事務的でほとんど愛想はなかった。
「ちなみに、守谷さんはどこに行ったんですかね?かなり怪我をしていた筈で、安静にしなければだし、薬も必要だと思うんですが。」
歩いて立ち去ろうとする看護師の背中に僕は話しかけた。
「あ、わたし当直でなく存じ上げません。」
勝手に入る客がいるのと同じく、勝手に帰るものまで管理できないと言う言い方だった。野戦病院か、住所不定者の集う公園か何かのような仕組みなのだろうか。
「守谷さんは良く来ますかね?」
「え?」
「昨日の怪我の。」
「守谷?ああ。昨日怪我でいらしたのですよね。そうですね。ご自分の怪我でいらっしゃるのは珍しいかもしれません。」
「じぶんの?」
「ええ。」
「どう言う意味ですか?」
すると看護婦は、あ、という間合いで、話し過ぎたことに後悔する様子で
「お二人は、守谷さんの、落とし物のお届けということで良いですよね?」
愛想のない彼女は、次があるから忙しいと言う風情を出した。
「あの部屋は何か事情があるんですか?」
「何もないです。なにも。ただの病室ですよ。」
看護婦は、淡々と冷たかった。もしくは、警察やそういう存在に失言のないように指導が入っているような空気だった。いずれにせよよく管理された態度がそこにあった。
彼女にまるで無視されたので、我々は守谷のいた部屋に戻った。他に行く場所もないのである。まだ早い午前の光が窓から差し込んで、無人の病室は見方によっては少し幻想的にカーテンを揺らしていた。
守谷が横たわっていたベッドは何事もなかったかのように、形だけ整えられている。
「守谷は、この病院とどういう関係なのですかね?」
普通、あのような怪しい人間を、待合でも救急車でもなく顔確認だけで受け入れるものだろうか。ぼくは、ご自分の怪我では初めてです、と言った看護婦の言葉が気になった。
「少し、特殊な空気のある病院のようですね。」
「そうですね。」
池尻、三軒茶屋という都会の一等地にありながら、多くの病院と違い、古びて暗い。ピンク色が燻んだような、暗鬱な全体の印象とどことなく湿った臭いが、その時の僕の心理に似つかわしかった。
朝からずっと青い顔色をしている軽井澤さんは、壁近くの丸椅子に腰だけ下ろしてしばらく茫然としていた。二人とも電池が切れたように動きが止まって、言葉もなくしていた。鬱然とした現実が、有無を言わさずに連続し、解決のない方角へ分散していく。人間はこう言う時に、会話が止まるものなのだろう。
ふと、その時だった
「あれ」
と、軽井澤さんがつぶやいた。そのまま丸椅子から降り、リノリウムの床に四つん這いになった。ベッドの横に落ちた丸めた紙のゴミを見つけて、拾い上げて、少しずつ指で広げている。
「昨夜こんなものありましたかね。」
「なんですか、それは?」
握りつぶされた紙を広げていくと、なんてことはない、コンビニエンスストアのレシートである。よく見るとその裏に走り書きがあるが、ほとんど文字には見えず、読むこともできない。
「守谷の、文字ですかね。」
「どうですかね。」
僕は軽薄な対応をした。と言うよりも、疲れ果てた軽井澤さんが、神経質に紙のゴミまで自意識過剰に見つめ出したと感じてしまった。
「文字のような気もしますが、どうだろう。守谷の来る前からあったゴミのような気もしますね。」
「そうですかね。」
軽井澤さんは、じっと殴り書きを見ていた。朝よりも更に顔色が悪い。
「少し、軽井澤さん、休んだ方が良いかもですよ。事務所で寝落ちでは免疫も下がるし、疲れも取れないですよ。」
「そうかもしれませんが、しかしご迷惑をおかけしていますし。」
軽井澤さんは、また一連を詫びるようにした。
「迷惑なんてかけて無いです。」
そう言った僕の言葉の後、少し沈黙があった。迷惑をかけた起因は僕の方にある。繰り返しだが、Googleの広告で安易に事業拡大を試みたのは僕だ。守谷も風間もその広告に誘われて電話をしてきた可能性が高いと思っている。彼らはGoogleからすると同じ問題のタグを抱える因子(ユーザー)なのだ。
僕が言葉を少し待つと、軽井澤さんは青ざめた表情でしかし誠実に僕の目を見て
「そうですね。一回お互いに休みましょうか。御園生くんまで免疫が下がると良くない。」
と、言った。
その後、二人で幾つか気になる点を話した。軽井澤さんは会話の間も青ざめた顔のまま、すぐそこに倒れ込んでしまいそうだった。
病院を出て、僕はタクシーに無理に軽井澤さんを乗せた。
それから、ひとりで池尻大橋の駅へ急いだ。
新宿まで電車で戻り、マツダのキャロルの延長代金を処理しなければと思った。