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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 85 章 八十二 老刑事 (銭谷警部補)

八十二 老刑事 (銭谷警部補)

 自宅謹慎ともいってもいいような、ほぼ何もしないでいいと言う早乙女捜査一課長の指示がすでにあるのである。つまり本来、少なくとも今日明日はわたしは本庁に行く必要もないのだ。しかし長年繰り返してきた習性で、事件がないと捜査現場ではなく本庁舎の六階の自席へ無意識で向かってしまう。働き蟻がさほど何も考えずに道を行くのと同じかもしれない。職業病というのは不思議なものである。
 自席に着くとメモがあった。
 (来客あり、受付まで)
 受付に連絡してみると、以前わたしにお世話になって、定年退職をするという老刑事が、ご挨拶に来ているという。メールでもなくずいぶん突然だ。わたしにそんな刑事の知り合いがいたか、幾人かの先輩のことを思い出そうとしたが、心当たりはなかった。
 階下へと降りて人を探すと、その人物は、さも定年退職者だからと言う少し朗らかな風情で警視庁の一階のロビーの入り口から、ニコニコと笑って私に向かって歩いてきた。わたしはなぜか変な違和感を覚えたが、その理由が何かはわからなかった。
「お忙しい中申し訳ございません。」
 快活な挨拶をはうらはらに、老人は定年退職をする以上に年齢を感じさせた。刑事は十年老けて見えると言う。名刺は
 A署捜査二課巡査部長
 槇村又兵衛
 とあった。
「すいません。せっかくご挨拶に来ていただいたのに恐縮ですが、わたしはあなたを知らないとおもいます。」
「そうかもしれませんね。間接的ですから。彼から、よく聞きましたよ。あなたのことは。」
「かれ?」
「お忘れですか?。金石ですよ」
「金石?」
「ええ。わたしの所属してきたA署からこちらの霞が関の本庁に異動になった金石健太警部補です。」
 老刑事は小動物のような黒い瞳でそういった
 私は過去の金石とのやりとりの中で、このような老刑事の話があったか、記憶を探った。けれども何も出てこなかった。
「金石ですか。」
「ええ。彼からはあなたのことは聞いてます」
「わたしのことを?」
 老刑事は朗らかにわたしを見つめた。
 *
「いやあ、懐かしいですね。」
 老刑事は、松本楼のカレーを掬いながら懐かしそうに、金石の新人の頃の話をした。定年退職をする頃に思い出すのは、自分が可愛がった後輩だと言うのは、わたしの腑には落ちたが、何を話せば良いのか判らないでいる自分を悟られぬようにするので精一杯だった。
 松本楼のカレーは相変わらず素晴らしかった。
 明治鹿鳴館時代の風情が残っている。真っ白なテーブルクロスの上で、恐らく安くは無い皿とスプーンでカレーを掬う又兵衛と名乗る老人をわたしは見つめた。
「良いやつでした。突然、何の連絡もなく辞めてしまったのは、後で聞いたんです。こちらでも突然だったでしょう。」
「そうですね。」
 何一つどころか、捜査の引き継ぎさえなかった。ただこの老刑事にも同じように、金石が退職をすることを言わなかったと言う事は少しだけ私を楽にした。
「定年退職の挨拶で、せっかくだから金石のゆかりの方に会いたいと思いまして。」
 老刑事は、A署の時代に、新人で配属された金石の教育担当だったという。つまり駆け出しの金石を育てたとも言える。所轄時代に、A署にいたことをわたしは金石から、話で聞いたことがない。そういえばお互い仕事の話ばかりして出身地さえ知らなかった。
「金石はああ見えて、繊細ですよ。」
 と老刑事は言った。ああ見えて言うのは、彼が二メートル近い巨体の持ち主だ、と言う話の逆算だろう。
「A署だったんですね。」
 わたしは、その管轄の金町に今住んでいる、とはいわなかった。
「おや。ご存じなかったのですか。」
「……。」
「とにかく若い頃から面白いやつでしたよ。」
 老刑事は、話が好きなのか、賢明に色々な話題を並べた。表層の会話も、ぼんやりとした話題も、それぞれが間合いよく過ぎていった。ただ、あちこちに言葉が流れるけれども結局、金石のほうに会話が戻るのだった。それを二度三度と繰り返した。
「どこへ行ってしまったやら。でも、誰にも何も言わずになんですかねえ」
「各所でも、そうなのですね。」
「ええ。こうやって定年退職の挨拶で、金石にゆかりのある方にお会いしてはおるのですが。連絡取ってるような、ことは聞かないですわな。まったく。捜査二課も、全く。それで、そう言えば一課の銭谷警部補とよく一緒に仕事をしていたはずだ、と聞きましたので。」
「なるほど。」
「辞める直前まで一緒の捜査で組んでいたとか。」
「……。」
 ようやく私はある違和感の正体を発見した。つまるところ、明確に自分が壁を作っている理由が自分の腑に落ちたのである。
 もう定年だから、最後に話したいという空気だけだったら、わたしはもっと話したかもしれない。もし定年で思い出話をしたいだけなのであればもっと長閑に、何かの答えを求めたりしないような会話で、会話を進めるはずだ。平凡な思い出を並べて、笑いあえばいい。
 しかし、そうではない。違うのだ。
 この老刑事は、何かを聞き出そうとする意識が奥底にある。もちろん初対面で定年特有の、終了感や、懐かしさを装ってはいるし、うまく隠そうとしてその空気を消し去ろうと笑顔を並べてはいるが、さすがに捜査の最前線を生きてきた私にはそれはごまかせない。
 どこかで会話が、目的会話になっているのだ。
 目的会話、というのはごまかせない。なぜならそれが刑事の本質だからだ。
 何かを聞き出したい。特に金石と私の間に何があったのかを聞き出したいと言う欲望のようなものが漂っている。会話の背後に目的がほんの少しだけ存在するーー。定年退職する刑事にそんなものは普通存在しない。
 わたしは、この又兵衛という刑事に不思議な不安を感じた。定年退職者とは思えない熱を感じる。逆に老刑事の側もわたしにそういう勘繰りがあるのを意識して言葉を選びはじめたようにも感じられた。少しずつ投げ合うキャッチボールに変な力みが生まれていた。そのせいでますます、お互いの言葉は宙に浮いた。たとえば、「槇村又兵衛さん。そうなんですよ。とても大きな事件の捜査を一緒にやったことや、その事件が、ある時に上層部から捜査本部解散を命じられ、その前後に、金石は刑事を辞めたのです。とても不自然な形でした。あと、誰にも言ってはいないのですが、おそらく彼と思われる人間から、不思議なメールが来るのです。これは内容がとにかく不思議でして。でもそれは金石が警視庁のメールに自分の存在が知れるのをリスクと思っているからかもしれないですね。誰だかわからない、内容も意味不明にしているとか。どうなんだろう。」というような、そういうざっくばらんな説明は、わたしの声に出ることはなかった。
 老刑事も、しばらくするうちに、同じようにわたしを見ていたのがわかった。定年退職して人生を諦めた眼差しで話す老人を演じていながら、用意してきた目的の会話が成立しないことにだんだんと不快感を感じ出してその不快感を表沙汰にしないように勤めている様子があった。もっともそれも普通の人間なら気がつかないことであろう。刑事の仕事のせいで人間の言葉の背後を考え過ぎてしまう。
 やがて、老刑事は少し諦めをしたかのような間合いで
「お会いできてよかったです。」
 と言っ...

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