七十三 地下鉄 (太刀川龍一)
その朝も、太刀川龍一はいつもの日課の通り、地下鉄日比谷線に乗った。霞ヶ関方面の列車の六時台、都心では通勤混雑時間の少し前である。車両には、四、五人程度の乗客である。
おやと、思った。
見覚えのある人間が、そしらぬふりをして隣の車両にいる。先日の無駄にしか思えない取り調べからまだ日も経っていない。似た身なり(スーツ)とオールバックの髪。刑事にしか思えない風情。銭谷警部補に偶然なんていうことはないだろう。
「銭谷さん、おはようございます。尾行は珍しいですね。」
太刀川は隣の車両まで歩いて話しかけた。
銭谷警部補は、悲しく、そして疲れた目で太刀川を見上げた。
「尾行ではない。」
「偶然ですか。なるほど。霞ヶ関に通っていますものね。ご住所は優雅な中目黒の先か、東横線沿いですか?」
「それを説明する義務は、私にないはずだ。」
「義務はないですね。でもそろそろお互い協力して、理解し合うのも大事かもしれないですね。」
「……。」
「噂で聞きましたよ。」
「噂?」
「捜査一課のなかで、あなたは孤軍奮闘みたいじゃないですか。ついに、尾行もご自分でですか?」
「尾行ではない。」
「銭谷さん。」
「……。」
「たぶん、向いていないからやめた方がいいですよ。」
「関係のないことだ。」
「昔のあなたの仲間はどうしました?それとも、警察組織の足の引っ張り合いでも勝手に始まりましたか?そんなことじゃあ、本来大切な本業のほうも保てないでしょう。税金は正しく使ってもらいたいですね。」
太刀川はそう言って、銭谷を見降ろした。昔の仲間、と言った時、珍しく銭谷警部補が表情を変えたのを太刀川は見逃さなかった。
「世の中には、市民にとって納得のいかない事件が溢れてます。そちらにまず時間をかけたらいい。私の事件からもう五年も過ぎている。」
眼下には、まるで取調べ被疑者のような風情で、銭谷警部補が項垂れて、地下鉄車両のリノリウムの床を見任せにしている。これでは、こちらが刑事みたいじゃないかと、太刀川は思った。嬉しくもない感覚だった。
地下鉄は霞ヶ関に到着し、ドアが開いた。
「降りないのですか?霞ヶ関ですよ。」
「どこに行くかは指図されたりはしない。」
「そうですか。では、私は失礼します。」
「……。」
「銭谷さん。また警視庁にも伺いますよ。捜査に進展があったときは呼んでください。私は警察に協力する事にしてますからね。ただ、本来のあなたは、もっとこんなこととは別の事件に首を突っ込んで警察を動かしていくべきだ、と思いますがね。」
太刀川はそういうと、閉まりかかったドアから降車した。
結果として置いてきぼりになった銭谷警部補は日比谷線の座席に石のように座ったままだった。