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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 七 章 四 地下鉄   (太刀川龍一)

四 地下鉄   (太刀川龍一)

 事情聴取の協力を終え、地下鉄霞ヶ関駅の階段を降りるとき、太刀川龍一は、桜田門に向けて振り返った。
 皇居の手前に屹立する警視庁ビルが見える。
 日本の警察、検察機構には、灰色を黒にする力があるらしい。それはどこの法文にも書いていない。けれども自分に言い聞かせるべき厳しい事実として、太刀川はそう思っている。時の総理大臣さえ、ややもすれば不思議な理屈で捕まえることが出来る。そういう力をあのビルの周辺に巣食う人間たちは持っている。
 権力は権力の顔をしていない時が最も逞しいと思う。目に見えているものは倒されることがあるけども、目に見えないものは倒す方法がないからだ。
 だから太刀川は、定期的に警察や検察、政治家などの様子も伺うようにしている。あの執拗な銭谷警部補もたまにはこうやって定点観測してもいいと思うし、警察の検察だのに詳しい人間や政治家と共に食事をするのも、決して無駄なことではないと割り切っている。たとえばああいう真実を追求したがる刑事に、むしろ自ら顔を見せ、諦めさせるくらいが良いし、向こうの事情が何か変わっていればそれが顔に出てくるに違いない。金融事件の屁理屈など理由は何でもいいのである。
 太刀川はゆっくりと呼吸をしながら霞ヶ関駅の階段を降りていった。
 多くの勤め人が、恐ろしいほど無言に歩みを続けていた。丸の内線、千代田線、日比谷線が乗り入れている霞ヶ関は、日本で最も国家公務員の官僚が利用する駅だろう。謂わば国を動かす駅と言える。
 しかし、霞ヶ関駅の空気に、未来への夢や興奮、労働者の熱気のようなものはない。暗く押し黙った空気だけがある。これが官僚の体臭なのか、別の時代的な理由なのかは判らない。
 太刀川は、売店で最近、趣味になっている紙の新聞を買うと、日比谷線のホームの椅子に座った。
 そうして腕時計を見た。
 中目黒行きがすぐに滑り込んできたが、立ち上がらなかった。
 中目黒行きのドアが閉まり、彼だけを残して車両が去ると、一瞬ホームは人が消えた。
 変わらぬ姿勢で、買ったばかりの新聞を手に取りゆっくりとめくっていく。
 (霞ヶ関駅、か。)
 太刀川は回想する。
 およそ二十五年以上前に、この駅を通過する、日比谷線、千代田線、丸の内線全てに、国家を転覆させる目的で猛毒を準備し、同じ日本人を、無差別で殺そうとした事件があった。ビニールに猛毒の液体を入れただけの袋を持ち合わせた人間が、単純に人間を殺すために乗車していた。具体的な殺人の対象があったわけではない。知りもしない、もしくは直接には憎む気持ちもない、同じ日本人という人間の命を奪うために猛毒を持って朝の満員電車にその実行犯は乗車していた。同じ日本人を誰でもいいから殺そうとした。できれば、官僚を殺そうとした。正確には、霞ヶ関に日本の警視庁や官公庁があるからーーー官僚が最も利用する駅だからーーーX地点として狙ったのだが、被害にあったのは殆どなんの罪もない、一般市民ばかりだった。
 地下鉄サリン事件と呼ばれたその事件は、既に警察にとっては解決済みのことで、裁判も、死刑の執行もほとんど終わっている。
 太刀川は駅をもう一度眺めた。
 (何故あんなことが起きたのか?)
 犯人よりも、なぜ事件が起きたのか、のほうに太刀川は興味がある。その答えはどこにも説明されぬままだという現実に興味がある。反省も回顧もないまま過ぎたのが、事件が起きた理由を象徴しているのかもしれない。
 もう一度時計を見る。
 立ち上がり、新聞を畳むと、次に来た中目黒行きに乗った。
 日比谷線の車内はありがちな混雑だった。が、乗客はそのほとんどが、耳に白や黒のイヤホンをし、手のひらの画面(スマホ)を見つめていた。誰も画面以外の現実には見向きもしなかった。誰かに後ろ指刺される心配もなく、太刀川は文庫の本をポケットから取り出して、目を落とした。文庫本は、夏目漱石の「草枕」である。
 そうして、それまでとは違う、別の表情で、あたりをほんの一瞬だけ見回した。
 万が一、銭谷警部補がこの時のこの太刀川の表情を直視していたら、若手刑事のつまらない反論を一蹴していたかもしれない。黙って尾行でもしろと命令できたかも知れない。
 太刀川のその目は明らかに「何かを探している」目だった。銭谷刑事ならば、気がついたかもしれない。
 太刀川龍一。
 三十一歳。
 東京大学工学部機械工学科に在学中、プログラマとして関わった事業を中心にパラダイム社を設立。その後、当時最年少での東証一部上場を果たした。上場後はメディアの買収を仕掛けるなど大胆な経営方針で社会を賑わせたが、その後、株式資産の全てを売却し、また、全ての役職を辞した。そればかりか、警視庁の調査であった通り、一切のインターネット上のアカウントは放棄されているため、ネット上でも消えてしまったかのような印象になっている。

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