← 目次へ
星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
第68章をXでシェア
第 68 章 六十五 覚醒の最中 (赤髪女)

六十五 覚醒の最中 (赤髪女)

 優しげな言葉が聞こえる。
 目の前にいないのはわかっているのに、言葉だけがはっきりと優しく。
「ちゃんと仕事をしていれば、ゆっくりと、昇格をしていくんだよ。」
 それは社長さんの懐かしい声だった。たしかに社長さんは最初そう言っていた。真面目にやっていけばいい。そうするといい話がくるのだよ。いつかそれがわかる日が来るよ、と。
「いい話?」
「そう。少しずつ、よくなっていく。真面目に一つ一つコツコツとやっていくのが大事なんだよ。そうすると、少しずつ上の位置にいけるんだよ。」
「社長さんみたいに?」
「私は違うけどね。」
「社長さんは違う?その仕事は、何のお仕事なんですか?」
「大切な仕事さ。芸能界の仕事ではないけどね。」
「私はそんなに芸能界好きじゃないんです。」
「そうみたいだね。聞いてるよ。アイドルは嫌なんだろう。」
「はい」
「握手が嫌かな?」
「いえ。そもそも、人前も嫌なんです。」
「ははは。だと思って、仕事をご用意させていただいたんだよ。」
「……。仕事、ですか。」
「若いうちはいろいろなことをやっておくといいんだ。」
「はい」
「生きていくには、ある程度のお金は必要だよ。」
「そうなんですね。」
「そうだ。でないと、女の子は、水商売だとか、自分を安売りすることになるからね。そうやって、自分の可能性を失っていくより、少しでも良いから、安定した仕事をしたほうがいいんだよ。」
 社長は丁寧に丁寧にいつも教えてくれた。大好きな社長だった。八十歳を過ぎていて人生の最後の様な表情でいつも赤髪女を優しい眼差しで見つめてくれる。長く病気を抱えていて、いろいろなことを考えていたんだろうなと思う。もし社長が生きてさえいれば私はこんな風にならなかったのかもしれない。

文字
明暗
組方向