六十二 ウィスキー(米田智幸)
米田智幸は、寝落ちした二人の探偵を見つめながら、コップだけ用意したウィスキーを飲むことができずにいた。この為に駅からも遠い陸の孤島のこの事務所まで歩いて来たが目的は叶わなかった。
レイナさんはだいぶ早い時間帯で、すでに画面から降りていたが、米田は残りその後も、あれこれと軽井澤さんと御園生君は議論を続けていた。そうしていつの間にか二人とも無言になり、その場で眠り出した。
軽井澤くん、の寝顔を見るのは久しぶりだった。
米田智幸は懐かしく眺めた。
放送局に彼がまだいた頃、初めて出会った十五年以上も前には、この軽井澤くんに、仕事を届けるのはメールやチャットではなかった。資料は封筒に入れ、手で持参して届けていたから、あの当時テレビ日本の六階の報道局フロアに行くのが常だった。徹夜明けで机で寝てる彼を幾度か見たものだ。寝顔でも人の良さが分かる、不思議な人間だった。
調査会社にいた米田に、天下の放送局正社員である軽井澤さまが、テレビ報道で記事にするものの裏取りを頼むようになったのがことの始まりだった。大手メディアはその多くが外注主義で、米田のような人間が幾人も下請けをしている。放送局も広告会社も、その業者がひと回り安い人件費で下請けする事で急拡大する業務を支えている。
軽井澤くんは、大企業にいる割には、自分の地位を鼻にかけない好感の持てる人物だった。幾つかの特徴の中で、その事が彼を象徴していた。仕事が変わった後もこうやって少し違った形で付き合いが続いているのは、そのせいかも知らない。
軽井澤くんはテレビ日本報道局が誇る敏腕記者の一人だった。いや報道局御園生班と言えば泣く子も黙るスクープ班であった。あの頃の主だった事件の最前線で、死体の血が乾かぬうちに現場に来るのは、常に御園生班だと言われた。業者(フリーランス)や若手ではなく、あの二人が最強なのだという話を何度も聞いたのを米田智幸は思い出す。めちゃくちゃな仕事や調査を振られるけれど、それは最強であり一流の仕事の因果なのだ。だから、楽しかった。世の中でこの人たちと仕事をできる人間は他にはいない、という気持ちで仕事が出来る時は人生にそうない。
その出世コースの軽井澤くんが、ベンチャー精神で新しい企業を立ち上げると言って、虎の子のテレビ局を辞めると言ったのは驚きだった。さらになぜ探偵事務所だったのかは未だ謎だ。GAFAだ、ネットだという時代の逆、テクノロジーとも程遠い探偵という事業の選択と創業については今でも疑問で、もしかすると経営の才能みたいなものはさほどなのかもしれない。いや、もっと奥深く崇高な理由があるのか知らないが、自分は詳しくはない、なにかがあつたのかもしれない。まあ、昨今の拝金主義的なものだけが許された時代に乗らないのも軽井澤君らしくて米田は好きだと思った。
報道記者が経営者になるっていうのはあまり聞かない。やはり、記者は、ものを知ってるようで、経済の実態の外側にあるのかも知れない。溢れるジャーナリストのロマンチズムと、経営の算術を兼ね備えるのは、容易ではないのだろうか。
そして何よりも、この机にうつぶせで寝ているもうひとりの人間、これがあの御園生さんの、息子さんがこの探偵事務所に就職したと言うのも、よくわからない謎だ。米田智幸は、直感で、二人にその事を聞くのは禁忌タブーに思えている。そのことは、むしろ軽井澤探偵通信社の最大の謎で、そして、軽井澤くん本人がそもそも探偵になったこと以上に謎に思えた。ただ、自分が、このことを根掘り葉掘り聞くような人間であれば、この二人と今のように付き合いが続いてはいないだろう。性格もあるがプライバシーのことには一切関わらない。軽井澤くんの出身がどこでそもそも結婚しているのかも知らない。そういうことは、当事者が話したくなったら、聞くだけでいい。せっかく仕事とプライベートが割り切れる時代になっているのだから。
米田はウイスキーを味わえないまま、もう一度、壁面に貼られた葉書を眺めた。消印で一瞬だけ盛り上がったが、十四枚の葉書は六日と九日の二種類しかなく、文字が意味を持って並んでくれるような事はなかった。
OCCEETRN ・・・六日消印
AAUKSW ・・・九日消印
発見に興奮したけども結局それが解決につながらないとわかると、二人は眠気に落ちたようだった。
何か暗い、病的なものを感じることと、軽井澤御園生の二人がそこに、巻き込まれることと、の不安が、アルファベットの並ぶ筆跡を見ながら予感された。ミミズのような文字は、内容の不健康さ以上に頑強な執念と病的な固執を感じる。強い怨念ともいうし、長い間をかけて蓄積された自意識が発露しているとも取れる。どの文字もゆっくりと時間をかけて書いた筆圧で、単純に作業をさせられたような下請け作業の印象ではない。
二人はGoogleの広告を入れたからだと(厳密には軽井澤さんはわかってもないようだが)言うのだが、米田には、それとは別の理由というか、何か暗い繋がりの予感だけがあった。二人の寝顔を見ながら、いくつかのことを思い返すと、米田は静かにドアを閉めて出た。一応鍵を閉めてお決まりの植木鉢の土の中に小さなその鍵を埋めた。