六十 池尻の夜 (守谷保)
二人の探偵が帰ってからかなり長い時間、男は殆ど微動だに動かなかった。守谷と名乗った男は、池尻大橋の病院で伏せていた。
この病院の院長が、風俗関係の業者と蜜月なのは、知る人ぞ知ることもある。なんでも院長先生は、派手好きで、若い頃からそういう不祥事を繰り返した人物らしい。自ら脛に傷があるせいで、様々な古い組織との連絡があった。そのせいで、院長が殆ど診察もしない今になっても、過去のさまざまな、正体不明の組織がこの病院をさまざまな形で利用しているのは、風俗関係者の末端である守谷も知っていた。
とにかく融通が効く。接客時のトラブル、裸体で失神したような薬のトラブルなど客は当然事件にしたくはない。経営する側も、事件を起こしたり処理を誤れば顧客回復には苦労する。これらの突発的で多様な問題を、警察にも届けずに難なく対応してくれる病院は有難い。要するに、意識が戻ればいい。事件が起きなければいい。いや正確には事件が起きても警察沙汰にならなければいい。
池尻病院ではこの種の問題にいつでも的確に対処がされた。だから守谷は自分自身がこうなった時も、さも仕事上での問題だという風情でこの病院にきたのである。これまでの経験上、さまざまの無理は効く筈だ、と予想した通りだった。自分を知るあの女医は明らかに気を遣っていた。守谷にではない。風俗の背後にある組織と病院のつながりをである。身分の照会などもないまま、女医は、薬を用意し、痛み止めをくれた。せいぜい不遜な客とのトラブルとでも思ったのだろう。しかし、腕がなくなってるというのに冷静な表情も変えなかったのには驚かされたが。
少しだけ、楽になった。
少し体が楽になると、守谷は、昨日からの出来事を思い出した。
十四枚の葉書が来てから予感はあった。
しかし逃げる場所は直ぐには考えられなかった。たいして金があるわけでもない。いまの仕事を失えば生活もままならない。身一つで暮らすことくらいはできるが、定職は楽だ。何より安定がある。それは失いたくない。
しかし、葉書だ。
あの葉書が、以前の、二十年前のものと同じ趣旨なのであれば命に関わる事になりかねない。
実際にそういうことになった、とも言える。
それにしても、なぜ今さらまた…。
何かの手違いでまた、葉書が発送されたに過ぎないと思いたい…。
昨夜は最悪だった。
あいつらは雇われただけだろう。明確に指示があり、この俺に「あの当時のこと」を繰り返していた。あの部屋で行われたことを、だ。
あのやり方。
同じだ。
あえてそうしている。
長い時間をかけて、記憶の中から消したものを、ひとつひとつこの俺になすりつけ直す。あの当時と、内容は恐ろしく酷似している。正確に同じようになぞってさえいる。被害者の味わったことを正確に再現していた。タバコを焼付け、棍棒でなぐり、集団でそれをする。
(ちがう。俺は違うんだ。)
守谷は自分に言い聞かせるように言葉を集めた。
(俺が殺したんじゃない。)
俺は、一緒にいただけだ。組織の末端として加わっていただけだ。自分は何も主導していない。ただ、一緒にいただけだ。
守谷は繰り返し自分に説明してきた言葉の中を彷徨い直した。三十年前のあの事件で人生の大部分を失った。その意味では俺は被害者の方のはずだ、と、誰に説明しても聞く耳も持たぬであろう言葉をまた繰り返した。
あの葉書のことを改めて思い出す。
今更カバンの中で見つめ直す気にもならない。アルファベットで葉書に書いてある文字は脳裏に言葉として並んでいる。記憶から消したものをわざわざ、思い返させやがって。。
(一体、誰が設計しているのか。)
全ては過去の闇からやってくる。
(やはり、被害者の父親か。)
体の回復が少し進むと共に、頭の中にさまざまな過去がよみがえる。甦らせたくない記憶ばかりが。
(いや、違う。その線はないはずだ。)
幾度も脳裏に繰り返された言葉が守谷でしかわからない論理をまとめ帰着しなおしていた。
ふと、ベッドの横の簡易テーブルにペンがあるのが見えた。ポケットまさぐるとそこにあった小さなレシートがあった。
(ではいったい、誰が設計してるのか?)
思うことを書いていく。
自分の周りに、ひとり、ふたり、と。
四人。
捕まったのは四人だ。
でも四人以外にも関与者はたくさんいたはずだ。
我々四人だけが罪を受け、他の人間は名前さえ出されなかった。むしろうまく、逃げた。四人は人生を失った。いやもっと言えば、四人の中にも判決の差があった。
天井を見る。部屋を見る。入り口のドアを見る。
ふと、また、わけのわからない奴らが今そのドアからまた入ってくる気がした。
(理由はなんだ?)
(二十年前を繰り返す理由は?)
葉書の言葉が脳裏に並ぶ。
やはり、今回もあの場所に確認に行った方がいい。
葉書は少なくともそれを指示しているのだ。
あの場所にいくのだけは避けたかった。