五十六 天現寺バー(銭谷警部補)
「おひさしぶりですね。」
バー「Paradio」はまだ店を開けたばかりで客がいなかった。ニコルソンと、わたし達が呼んでいたバーテンはまだ健在だった。いやむしろあの頃の時間がそこに屹立(つった)ってるようにさえ思えた。やがて、名前も確認せずに何年も前のボトルを出してきた。まるで昨日のボトルのように。
ジャックダニエルのボトルは埃被るどころか、綺麗な半円の艶を反射させていた
「清潔だな。」
「神経質なんですよ。」
まるで、長い時間不義理にしたことにも興味がない、というような風情で、最低限の言葉が使われた。ニコルソンは、頭頂部近くまで禿げ上げていて、それを隠さず逆に目立たせるようなオールバックをしてる。
「神経質か」
「ご存知かは知りませんが。」
「他人の性格には興味が元々ない。」
「ロックでしたね。」
客商売の愛想ではない。天性の非同調でもあり、どんな戦争が始まっても彼は思想で周りには飲まれないだろう。ジャックダニエルは少しだけ残っていた。わたしには酒を眺めながらまさにあの頃の空気がボトルの底に漂って映るように思えた。
もう六年も前になるのか、と指を折って数えた。二課の金石と仕事終わりに飲んだのが始まりだ。安月給の刑事に優しい値段とまでは言わないが、捜査に行き詰まった脳味噌には贅沢な無駄が必要だった。渋谷とも上野とも違う、変化のある場所を求めた結果、また、わたしの足立区とは逆の品川方面に住む金石との仕事終わりは、このあたりがちょうどよいとなった。
一課で殺人を担当するわたしと違い、金石は二課で知能犯を専門としていた。既に幾つかの巨大な経済事件で実績を重ねていた。六本木の連続死亡事件が起き、捜査一課早乙女主任の主導で、我々は捜査本部を組むことになった。今、早乙女がどう思ってるかは別としてそのキャスティングは絶妙だったと言えるだろう。
「ダニエル、ロックです。」
ニコルソンは、思惟の邪魔をしないくらいの声で、グラスを置いた。まんまるく削られた氷が夕焼けの太陽みたいに、ウヰスキーの琥珀の上に揺れた。
六本木事件。
わたしはバーの死角の闇を遠く眺めながら回想した。
それは、世間的には二つの死亡事故だったはずだ。金石とわたしはそれに加えてもう一人の人間の死をあわせ、三つの死と向き合ったが一回その三つ目のことは枠外に置いておきたい。
ひとつが、パラダイムの子会社社長の沖縄のホテルでの謎めいた変死とも取れる自殺であり、もうひとつは、若い女子大生の六本木の一室での変死だ。二つの死は、太刀川のパラダイムがまさに世の中を席巻していた頃に起きた。この若い東大出の鼻につく経営者は明らかに、時代の寵児だった。六本木ヒルズの別のフロアに彼は成功者の証のように豪邸を構えていたし、変死は強引な経営方針の反作用にしか思えなかった。事件が起きた時に多くの人間は、彼が何らかの犯罪に絡んでいる可能性が高いと感じた。沖縄で死んだ子会社の証券会社の社長に至っては、何かの隠蔽のために殺したのではないか、という疑惑もあった。たとえば反社会勢力との接点を消すなどの理由で。
沖縄と六本木での死亡事故は、いかにもメディアが好みそうな事件だった。富裕層が集う高級な六本木ヒルズのマンションに出入り自由の女子大生やタレントと言うのも庶民感情からするとチャンネルを変え難い。防犯カメラはその階だけ壊れていたり、若い女子大生が死んだ部屋には、テレビに出る著名人や政治家、ベンチャー企業の経営者が何人も出入りしていた。その一人である証券会社の社長が、沖縄で滅多刺しで命を落とし、ところがこれは自殺であると、沖縄県警で処理される。
そこまでは事件としては起こるべくして起こった、ある意味自然な事件だ。表現が正しいかはわからないが、不自然ではなかった。ただの事件だった。もしかすれば、政治家や上級官僚に関係する人間があの六本木の部屋や、証券会社の社長に接点があったかもしれない。しかし、そうだとしても自然な、わたしのなかでは想定内の事件ではあった。
この自然な事件が、<或る時点>で潮目が変わる。
沖縄、六本木と死者が出てから少しして、太刀川はパラダイム社を辞め、密かに株の売却を始めた。その売却が始まる頃から、何故か、報道全体が変化した。何故かそれまでの太刀川周辺の罪を暴くという熱気が消えていったのである。急激に静まった、というよりなぜか他の事件や、事故が相次いで気がつくと世の中が忘れていったと言った方がいい。有名なタレントの覚醒剤の逮捕が相次いだり、別の視聴率を取りそうな事件が気がつかないうちに報道を変化させていった。
太刀川が会社の代表の座を失い、上場も廃止となる時も、メディア全てが取り上げるどころか、そんなニュースなど誰も知らなかっただろう。世の注目は別のことにあった。出る杭は打てるが、沈んだ杭を相手しても視聴率を取れないといえば、それまでだが本当に<それだけ>だったのだろうかーー。
「これこそが、やつの仕掛けた脱出作戦だよ。」
金石はそう言った。太刀川の助かるための仕掛けがこの変化の中にあるのだと、金石は確信めいた言葉で、このカウンターの席でそう話した。
追い打ちをかけるように捜査本部解散の話が早乙女から降りてきたのはそのすぐ後だった。
まさに、わたしと金石は、事件の裏採りを続けていたときだ。メディアが相手をしなくなっても、巨大な真実があれば再び振り向かせることができる。巨大な真実は小出しにはできない。全部を集めることが必要だ。
あの時期、我々はほとんど毎晩このバーにいた。夜明け前の始発が走る前、世界が眠りに落ちるころ、誰にも邪魔されずに二人で話ができたからだ。
「銭谷、やはり世の中はクソだぞ。」
「くそ?」
「ああ。ひどいものだ。」
「警察ではなくて、世の中が、か?」
捜査本部の解散をするかも知れないという噂はあった。どこかで、予想の範囲でもあり警視庁の上層部の中に何かあるものを感じていた。しかし金石はもっと警察の外側まで含めて見ていたかもしれない。
「おろかな二世や金だけの人間がこの世の春を謳歌している。この不景気で未来も霞む日本で、だよ。税金も限界まで取ってだ。」
「金だけの人間は、いいじゃないか。自分で稼いだんだ。」
「本当に世の中に価値のある仕事で、稼いだ金ならな。」
「ちがうのか?」
「ちがう。」
「でもどうやって。」
「権力の側にいれば、なんだってできるんだよ。今日本の税率は50%だ。この国のお金の半分は税金がばら撒かれる。その金に群がるんだよ。なんでもできる。権力は情報の宝庫だからな。」
「被害者は納税者か。公金でこの世を謳歌する。」
「太刀川の周りはそんな人間ばっかりだ。みんな金だけなんだ。」
「金だけか。」
「むしろ太刀川のほうが、純粋かもしれないぞ。」
この世の中には庶民が見たくない闇がある。わたしもその庶民の一人だ。金石はその闇の中をしっかりと両眼で見ていた。暴露をする価値ある情報が集められていた。だから、本庁にすべてを報告できなくなっていった。
「すさまじいよ。全員が売国奴かもしれない。」
「全員ってことはないだろう。」
「いや、正義の味方は存在できない世界ってあるんだよ。」
金石は饒舌だった。...