五十三 秋葉原 (赤髪女)
「一所懸命やっていれば大丈夫だよ。少しずつ良くなるから。」
社長さんはそう言って、赤髪女にこの仕事のことを教えた。もう八年も前から、変わらずに赤髪女は、この仕事を行ってきた。
「長く真面目にやっていれば、きっと人の評価が上がるよ。世の中はそういうものだよ。信頼されて、人の役に立てばいいんだ。」
「……。」
「あと、本を読むことだよ。」
「本?」
「読んだことあるかい?」
「興味がないです。」
「本は素晴らしいよ。」
「でも。」
「うん。社長さんも、若い頃は一冊も読んだことがなかった。ある時期から面白さを知るんだ」
「まだその時期じゃないのかな」
「無理する必要はないよ。でも、困ったら読むと良い。おすすめの本をプレゼントしておくよ。」
「なんて本?」
「たくさんある。ダンボールにいれて自宅に送ってあげる」
社長さんは言っていた。
たとえば、新聞紙が落ちていて、文字の何箇所かに赤く丸がある。
その文字をつなげると、
港区麻布十番X のY のZ
という住所になる。その場所に行くと、次の命令がある。電話はない。大抵、紙や封筒だった。文庫の古い本の時もある。古本を開くと何かが挟んであったりする。
そういうことだから、赤髪女はこの仕事で人と会話をしたことがなかった。そこに人間が存在する感覚さえなく、仕事は常にゆっくりとしていた。金額も最低限だったから、覚醒剤を買うのは簡単ではなかったのだが。
今回は違う。
突然、電話がかかってくる。
そこには細かい会話があり、ヘリウムの声だが人格めいたものが見える。そして何より金額が大きい。結果覚醒剤を購入する頻度だけが変化した。
赤髪女は身震いを少しさせながら覚醒剤を得るために祖師ヶ谷の自宅から都心に向けて地下鉄を乗り継いだ。
禁断症状のせいで、油汗が背中と腋の下に酷かった。
駅の階段をあがると、青空が高くて遠い。秋葉原らしい赤と黄色の看板の色彩が青空の手前に見えた。
嘔吐したくなるような感覚が自分を襲っている。
それは、いつも突然だ。
脳にぶつぶつと紫色の泡が始まりそこを毛虫のようなウジ虫のような生き物と、化学の強い石鹸が混じったような混濁が広がっていく。そこにはゴキブリの幼虫や、ウジもいる。
そういう気持ち悪さが脳を覆っている。
そこに、覚醒剤が入る。
注射の後、一瞬にして全てが真っ白になり、まるで新しい太陽が輝き、遠く水平線まで真っ白に広がっていく。心が救われる。さらに、みんなが笑顔で赤髪女のことを話し始める。「ありがとう!」「ありがとう!」「あなたのおかげです!」そういう言葉が脳内に溢れる。
覚醒剤は赤髪女の悩みを知っていて、知悉していて、それを解決するように脳を作り直してくれる。恐ろしいくらい完全な自分になっている。薬物が体に入っている間は、そう言う感覚があるーー。
赤髪女は、後悔をしている。
多分もう自分では、覚醒剤を止めることはできないだろう。
大金を握りしめて、赤髪女は電気街の裏道へと歩いた。
「取引所」がある、ラジオ関係の古いビルに入る。
昭和の匂いが鼻に来た。
五階の部品売り場に行く。売り場は、小さい蝶ボルトネジから、大きなユリヤ、部品も含めると、エンコーダー、IFT、真空管、それぞれが、屋台のスーパーボウルのように部品ごとの海になって陳列されている。
お決まりの<ネジの海>の中に五万円を埋める。
そのままその場を去る。
エスカレーターを降りて一旦、下の一階までは行き、そのままもう一度同じ場所に戻る。金を入れた<ネジの海の底>に「取引」の品物が埋まっている。
ネジの海に手を突っ込むと、金属の冷たさの中にぬめりとしたビニール袋の肌触りがあった。