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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 55 章 五十二 思い出  (レイナ)

五十二 思い出  (レイナ)

 トレーラーは、福島、茨城の太平洋沿岸を南へと進み、千葉の九十九里浜を過ぎた。少し先に街が見えた。海岸の街は勝浦という地名だった。
 昨夜から準備していた佐島恭平の服装に着替えると、レイナはトレーラーを降りた。街といっても、港町にJR 外房線の列車駅がある程度だろうか。駅前を歩いても人はまばらだったが、漁港の近くに飲食店が並ぶ小さな商店街があり魚市をやっていて少し賑わっていた。
 佐島恭平になったレイナはゆっくりとその往来を歩いた。
 元々、レイナと言う人間は街を歩くことが恐怖だった。
 佐島恭平ならば、少し楽になる。佐島恭平という人格は決して、街を怖がったりはしない。架空の設計と定義がそうなっている。レイナ自身を楽にしてくれるのである。
 勝浦漁港の商店街は短かった。
 少し歩ききったところで、店舗は途絶え、すぐに海が見えた。
 空が水平線に向けて薄白く雲をまぶし、視線の限界で海と重なっていた。
 ふと、今日の変装は不完全だと思った。佐島恭平であることを諦めてレイナは砂浜へ降りる階段に腰掛けた。雑念が脳に溢れている。
 人間関係。
 自分はどこかで人間を避けている。
 佐島になるのも、自分を誰にも見せたくないという恐怖心があるからだ。
 (絶対に誰にも言えない過去があります。)
 (今まで言わないできた秘密があるのです。)
 誰しもそんなことを言うような異常者を避けたい。
 異常な人間と関わって生きていくのは苦しいし、人間は不思議なもので、異常に触れると異常が芽生えておかしなことが始まってしまうかもしれないのだ。異常者は街の真ん中にいてはいけないのだ。人間はそれがわかっている。その結果、異常者は、周囲に自分の異常を隠し始める。過去の犯罪があればそれを隠して生きるし、常に演技をして正常な仮面の自分で生きることになる。
 節子さんと何度も話したことだと、レイナは思った。
 (だめ。今日は、佐島恭平になれない。)
 商店街のおしまいに、ちいさなレストランがあって、古い昭和の香りがしていた。飛び込みで入るとメニューにカレーライスがあった。
「カレーライスください」
 注文すると、コーヒーを出すような手早さでカレーがやってきた。
 ゆっくりと、スプーンですくう。
 少し懐かしい味がした。
「単純で悩みのない人生なんてつまらないものよ」
 カレーライスの味と一緒に、節子さんの言葉を思い出す。
「人間の一部分しか見ないようにしてると単純になれるのよ。思考をそっちに行かせないと決めちゃえば、楽ちんだから。」
「……思考停止?みんな、考えるのをやめてるの?」
「どうだろうね。でも、少なくはないかもね。」
「でも。」
 レイナがいつもの話になろうとしたところに節子さんは先んじて、
「つまらない過去だったら一回忘れてみるのもいいわ。新しく別のことを始めてみるのも。」
「忘れるんですか?」
「うん。」
「無理してですか?」
「思い込めばいいのよ。演技みたいなもの。自分が生まれた場所とか、なんでもいい。自分の別の新しいものを描いてみるの。こんな素敵な性格で、こんなことに喜んで、こんなことを探しているって。思考停止しないで、新しいことを考えるの。」
 節子さんは、何度となく、レイナにそう言った。激烈な過去について悩むレイナを見て、幾つかの配慮で生まれた会話だったのだと今は思う。当時のレイナは、
「新しく始めてみよう」
 と、熱をもって繰り返す節子さんの言葉にはどこかで癒された。そうして、本当に、自分が始まるような気さえした。自分と言う人間に、全く違う眉毛と、髪の毛と、服を着せて違う人間の人格と気持ちになって生きる。買い替えたパソコンみたいに。
 いま、自分は男性の格好で、カレーライスを食べているーー。
「…自分がもう嫌なのなら、変えてしまうのもアリなのよ。」
「そうかな。」
「そんな気持ちで良いのよ。」
「……。」
「でもそれよりもっともっと大事なことがあるわ」
「だいじなこと?」
「ええ。」
「どんなこと?」
「そうね。あなたの能力の問題ね。」
「能力?」
「あなたには才能があるのよ。私にはわかるのね。」
「才能?」
「うん。その才能で何かをやってみてほしいわ。だって、あなたには才能があるから。」
「よくわからない。」
「まあ、焦ることはないわ。あなたは嫌かもしれないけれども、私はあなたの今が好きよ。」
「なんで?」
「過去に悩んでるのは悪いことじゃないから。過去を気軽に忘れてる人より、過去を悩みながら生きている人間の表情が私は好きよ。だって、その方がずっとおしゃれで今時らしくて、人間らしいんだもの。これは本当のことよ。それでも悩んだらまた変装すればいいのよ。悩んでる自分はそのままでいいの。変装してもう一つ楽しむのよ。」

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