四十九 病院の外へ(軽井澤新太)
わたくしは、守谷と言う男が「何か」を知っているようにしか思えず、激しく胸ぐらを掴み揺さぶりました。しかし、それは、半分はもうこれ以上この男との押し問答で今日を終わらせたくないという一心で、これでいちど事務所に帰ろうという判断でした。くわえてもう半分は、目で合図をした、御園生くんへのお願いもありました。守谷が大事そうに抱えていたボストンバックを、この隙に見て欲しかったのです。このまま手ぶらで帰っても辛い時間が続くのは判りきっています。せめて守谷の背景情報を巻き取りたかった。わたくしは守谷の胸ぐらを掴みながら、一瞬だけその視線を御園生くんにおくりました。
守谷を吊し上げている間、背中にはその「作業」の気配がありました。しかし、か細い体と、片腕の切断含め、身体中の傷跡はやはり生々しくありました。人間の姿としてあまりに不幸だとも言えます。わたくしは人間というものがどういう仕組みで不幸になっていくのか、ということを何故か胸倉を掴みながら脳裏で思っておりました。
頃合いを過ぎたところで、わたくしは振り向きました。ボストンバックは、元の位置に何もなかったように置いてありましたが、御園生くんの表情を見ると、何か仕事を行った後の表情をしていたものですから、わたくしは安心して、
「では、いきましょう。」
と穏やかに宣言し、守谷を置き去りに病室を出ました。リノリウムの廊下に出ても振り返ることはせず、御園生くんとわたくしは無言で淡々と階段室へと向かいました。
病院を出たところでわたくしと御園生くんはタバコを一服したり、お互いの携帯電話などを確認いたしました。
そこには、一人娘の紗千からの連絡メッセージもありました。
「昨日はボクシングのあとバタバタでごめんなさい。近々お食事でもいかが?」
父親にとって、いつどんな時でも嬉しいものは、娘からの食事の誘いの連絡かもしれません。そもそもこれまでも、これから先も、娘からのメッセージの全ては、喜びでしかありません。初めてスマートフォンと言うものを持たせてメッセージを自分に送ってもらったあの日から、すべてのメッセージをいとおしく思います。
通常であればこのような娘のメッセージをわたくしは、何よりもありがたく受け止めます。昨夜から眠れなかったような今回の事件だったり、話すのも嫌な調査を押し付けてくる風間のような相手の仕事をしているとしても、青空のようにそれを吹き飛ばすのが娘からの連絡でございます。
しかし今回は、少し違いました。
いつもの通常のようにはいきませんでした。
なぜなら、わたくしは今日の守谷のことがあって、少し明らかに心が乱れているのです。あの歌舞伎町のおぞましい場面が、なぜか自分の娘の記憶と混乱し、混じったような気がしたのです。守谷の犯されたような状況に、自分の娘の紗千が向かうかのようなありえない妄念が脳に生じたのです。
想像というのは恐ろしいものです人間の脳細胞というのは想像したくないと思えば思うほど、精神が逆に働き、想像したくないものを想像してしまうものだと何かの物の本で読んだことがございます。一瞬の妄想が娘の具体的な不幸の場面を脳裏に強制したのです。それを、わたくしに仕向けるのです。
連日、守谷や風間のような種類の人間と時間を過ごしたせいかもしれませんが、最も愛する娘と、あの二人が、単純に素材としてでも脳に混ざるのはとにかく、苦痛でした。自分の娘がもし、あのような不気味な男たちに監禁され、陵辱を繰り返し受けたなら?そういう、トラウマのような問いかけがわたくしの脳に生じたのです。それは表現をするのも苦しくなるような鬱然たる心情でございました。
「ありがとう。是非と言いたいところだけども、今日は先約があります。来週どこかでお願いします。」
わたくしは精一杯の指の力でそのメッセージを書くばかりでした。