四十四 本郷界隈 (太刀川龍一)
太刀川は竜岡門の前を通りすぎた。
竜岡門と言うのは、赤門や安田講堂前にある正門と違い、さほど有名ではない東京大学の入り口の一つである。ここは学生というより東大病院の出入りが主となっている。
周辺には、竜岡門の名をあやかった建物は多く、竜岡門ビルディングもその一つだった。
太刀川は茶色いレンガに左の片面だけ蔦が密集した地上四階建てのマンションを見上げた。いつも上り下りをした蔦まみれで剥き出しの非常階段が懐かしい。この四階がパラダイム社の創業の地だ。オフィスは残っていない。パラダイム社が、六本木に移ってから閉鎖させていた。
実はこの創業のオフィスの賃料はずいぶん長い先まで払われ済みであることを知る人間は少ない。そもそも、あれだけ騒いだ記者たちも、ここが創業の場所であることなどを知ってる人間はほとんどいなかった。
ビジネスは人間同士の殺し合いで、利潤の奪い合いなのだということをまざまざと覚え始めたのはこの小さな一室だった。売り上げが上がり、社員が増えて手狭になり一度、二階が空いたので追加でそこを借り、六本木に移転させるまでの三年ほどしかいなかったが、ある意味で誰よりも、一番辛かったあの時期をこの部屋は知っている。
この部屋の鍵をまだ自分が持っているということを知っている人間はもうだれもいないだろう。太刀川は竜岡門ビルディングを眺めながら、一昨日、霞ヶ関の地下ホームでぼうっとした時間を思い出した。かつて、猛毒のサリンをばらまいた人間たちには、東大の数学科にいたような人間が少なからず含まれていた。あの頃、きっとそれは何かに飲み込まれた人間たちだと考えていた。人間の社会はこころの飲み込み合いだと感じる。組織がそれぞれ様々なやり口で大勢の人を飲み込んでいく。装置のように、重力のように、組織は人間を飲み込んで大きくなっていく。人間を飲み込めない企業だけがつぶれていく。宗教も政党も全部同じ。そうやって利権と利潤をうばいあう。
太刀川がそれらを学び始めた場所が、この竜岡門ビルディングだった。理想や夢と全く逆の現実と向き合った場所、とも言える。誰にも言えない事を整理しながら社長業を学んだ、あの孤独な時間はここにあった。
太刀川は何か言葉を念じたような表情をすると、鞄の中にある部屋の鍵を手で確かめていた。