一 霞ヶ関 (銭谷警部補)
夏の終わりの、夕暮れだった。
東京霞ヶ関の警視庁では、憂鬱なやりとりが続いている。
「刑事さん。いや、銭谷警部補。何度も、申し上げてる通りですよ。」
若い参考人は、あえてわたしを名前と肩書きで呼んだ。
「もう少しだけ、捜査にご協力を頂けませんか。太刀川さん。」
「お話ししているとおり、私には、刑事さんが仰っていることが、さっぱりわかりません。何か確実な証拠があればまだ、わかりますが。」
睨み合いは想像よりも体力を使うものだが、参考人太刀川龍一は若者らしくほとんど疲れを見せなかった。聖人君子のような姿勢で、椅子に座ったままである。わたしは厄年で、彼よりもひとまわり以上の歳をとっていた。硬いパイプ椅子が少しキツくなっていた。
「刑事さん、いや、銭谷警部補。そろそろ。」
言葉を、紙に乗せるように、若い男は話した。
「そろそろ、任意のお時間としては十分なのではないでしょうか。」
「……。」
「小市民としてお役に立てることがあればと思ってご協力しているおつもりです。」
わたしは、押し黙った。スーツの上着を脱ぎ、もう一つのパイプ椅子にかけた。アメ横で買ったネクタイを野良犬の首輪のように緩める。
「あなたが私に問うたのは五年以上前の出来事です。今も昔も、おっしゃるような内容に身に覚えがございません。いまさら、どこかで起きた新しい事件に紐付けて何かを言われても無理がありますよ。」
「五年経とうが、話したいことはある。」
「無理があることは、お認めですよね。」
若い男は少し微笑んでみせた。まだ三十一歳。艶のある肌と髪。高価そうな襟付きシャツは、くたびれた身なりに無精髭の刑事とは対照的だ。部下の手前、わたしはそれでも心を奮って、
「太刀川さん。あなたが、多くの関係者と、六本木ヒルズの資産家の一室で時間を共にしたのは事実だ。」
「もうそれ、六年以上前ですよね。そんなことは、忘れましたよ。」
若い男は眼光を強めて、つまり、年長者のわたしを侮蔑してそう言った。
「部屋に出入りした中には薬物の売買に関わったものもある。あなたの会社(パラダイム社)も様々な関わりがあった。その関係者が、今回の金融事件にも絡んでいるわけですから。」
わたしはそう言って深く息を吐いた。金融事件というのは、わたしが作った任意聴取のこじつけだった。
「言葉が違います。私の会社ではなく、私が昔関わった会社ですね。今は関係がない。株も売った。」
「でもあなたが創業して、上場させた会社でもある。」
「株を売ったら終わりですよ。ビジネスをやったことがないと判りにくいかもしれませんが、そういうものなんですがね。まあそれはいい。では、堂々と、今回の不正の嫌疑で私を逮捕すれば良いでしょう。なぜそれをしないのでしょう。」
こじつけて呼んだだけの人間を逮捕など出来るわけがない事を分かって太刀川はそう言った。わたしは聞こえないふりをした。あの太刀川が六階にくるということで、若手にも少しだけ参加を仰いでいるのである。完全なゼロは避けたい。
「失礼ですが、銭谷刑事。論点を誤魔化してまで、あなたが調べたいことは何ですか?」
太刀川龍一。学生時代からウェブ開発で名乗りを上げ、随分の資産と人脈を築いた。その中には犯罪に絡んだ関係者も含まれる。実際にそういう人間の集う六本木、西麻布の疑わしい界隈にも出入りしていたし、メッセージや写真の履歴も数多く残っている。
「余計なお世話かも知れませんが、今回は良かれと思って、不正事件のご協力で参ったのです。久し振りのご連絡でしたからね。ご存知六本木の自宅から、この霞ヶ関は日比谷線で二駅ですし。」
「……。」
「さてと。もう十分、お話しさせていただいたと思います。」
勝ち誇るように太刀川は言った。
煙草が愛おしい程の想い出になって、わたしを胸板の裏から呼びかけてきた。中毒者のように手元が落ち着かない。脳内の言葉が順序正しく並ばないのがわかる。取調室の禁煙を始めた官吏をわたしは恨んだ。
「あなたは、あの六本木ヒルズ3505号室に、幾度も出入りした。」
「部屋の番号まで思い出せませんよ。」
「防犯カメラでわかってます。」
「それ、何度も聞きましたよ。」
「人間が死んでいる。」
死と言う言葉が出てもなにも変化を見せず、太刀川は、また同じことを聞くのかという表情をして、
「繰り返しですね。私は関係がない。アリバイもある。そもそも動機もない。おっしゃるとおり、事件のあった六本木のあの部屋に、事件とは違う日時に出入りしたことがあったのは若気の至りです。うん。そうとしか表現のしようがないです。他のこじつけについても、説明をし直しますか?」
「沖縄の件はどうですか?あなたの仲間、いや関係する人間の死については?」
「ふふ。沖縄のことを自殺と決めたのは警察ですよね。」
「沖縄県警がね。」
わたしは日常好まない縦割りの言い逃れをした。太刀川龍一はすぐに反論した。
「僕ら小市民には県警も警視庁も一緒です。そもそも警察組織が結論づけたのですよね?あなたはどこの組織の権限でその結論とは違う話をしてるのですか?こうやって蒸し返すのは組織として許された見解ですか?」
幾度かの過去と全く同じ言葉だった。わたしはニコチンのない、わびしい室内の空気を吸い込む。しばらくわたしが次の言葉を出せないでいるので、太刀川の方から切り出した。
「刑事さん。いや、銭谷警部補。自分はもうああいうインターネットのような世界の仕事を辞めたんです。わかりますよね。」
「……。」
「世の中、いろんな仕事があります。刑事さんも仕事を選んだ方がいいのではないですか?」
「それはあなたに関係はない。」
「時間は有限だということを申し上げたいんですよ。」
「……。今までお聞きしませんでしたが、あなたはパラダイムの株式を売却後多くの現金を得ましたね。それらのお金はどうされていますか?」
「金は、慈善に使ってるのです。」
「……。」
「嘘では無いですよ。口座でもなんでも調べればいい。今時は銀行口座は電子取引で筒抜けでしょう。」
「調べ済みだ。金の動きは殆どない。」
「そうですか。ではそれだけってことでしょうね。どうせ他のことも調べてるだろうからあえて言いますが、サイバー空間でいくら調べても無駄ですよ。」
「無駄?」
「ご存知の通り、私のアカウントはもうこの世にないんですよ。」
「アカウントがない、のは知っている。以前のようにメディアに出るのをやめたようだな。」
「銭谷警部補。あなたの昭和風情より、今の私はアナログですよ。目の前の、手触りのある仕事だけを選んでいるんです。サイバー空間で独断的に捜査している警察さんにとってはやりづらいかもですがね。」
「慈善というのは?」
「様々なことに研究したり投資したりするんですよ。最近では脳死関係の文献を見たり実際に行ったりしています。」
「脳死関係?」
「ええ。ご存じないですか?人間がどこまで生きていて、どこからが死ぬかと言う話です。まさに小宇宙です。」
「慈善活動のイメージが湧かないが」
「研究に近いですよ。人間の脳というのは不思議で、体が全く動かなくなっても脳だけで生きていることがあるのです。まさに、ね。まあ、あなたには縁のないことかも...