三十六 隅田川 (銭谷警部補)
布団からいつまでも出れなかったのは非番が言い訳だった。
幾度頭の中を探しても、昨夜の石原が最後に話した言葉の前後が思い出せなかった。
酒が切れてきたところで意を決して家を出ると、わたしは金町から京成柴又線を乗り継ぎ浅草に向かった。観光客のように切符を選びもせず浅草桟橋から船に乗り隅田川を下った。
非番の日の過ごし方は二十年近く変わらない。
隅田川は変わらず悠然と流れていた。
午前の陽光に、川面が釣魚の鱗のように輝いている。
川から眺める東京の街はまるで別物だ。日常にない視界の広がりが、脳に新鮮な安らぎをくれる。日頃眺めている建物を、空からではなく、陸からでもなく、水の側から見つめ返す。わたしにはそれは自分の背中や普段見落とされる死角を眺める視座に似ていた。海風と一緒に自分の脳裏にまた別の物の見方が降りてくる時が、刑事の空想に最もありがたい種類の閃きをくれることがある。川風、いや東京湾から届く潮風を頬に受けながら遊覧船の上でひとりになった時に、わたしは幾度となく妙案を思いつきそれが結果として捜査を進展させたりもした。思えば休日も仕事のことしか頭にない。そういう姿勢は昨今の若い人には合わないのは確かだろう。
独り身で暮らす金町寮から京成線を乗り継ぎ、下町経由で隅田川に出る。東京には珍しく長閑な三両編成で柴又青砥を回って押上、浅草へと出る路線は、平日に十車両編成の千代田線で霞ヶ関へ直接向かう電車とは風情が違っていて、浅草に着く頃には日常にない気持ちになるのが常だった。
遊覧船に揺られながら、わたしは再び、昨夜の上野での若い石原との会話を思い浮かべていた。
ほとんどのことを、わたしは気兼ねなく話した。自分でも驚くくらいに、何も包み隠さず、太刀川での捜査の失敗や、今に至る難しさ、自分の勝手な想像、思い込みも話をした。悩みのようなものまで酒の勢いで語ったかもしれない。石原には不思議な間合いがあった。わたしは言葉をつなげるだけでその間の論理の接着は石原がおこなってくれるようだった。酒の飲み方を知っていると言うことだろうか。わたしはふた周りも年齢差がある石原に操縦されるようになんでも喋っていた。その結果、
「これからよろしくお願いします」
という宣言を受けたことになる。繰り返しだが、その前後が思い出せないまま、わたしは石原と何らかのチームを組んだことになる。
ただ、そうやって思い出せない記憶が昨夜の酒にあるにもかかわらず、わたしには一つの確信は揺るがずにいる。
どんなに酔って自分を見失ってもわたしの口先からは「とある」人間の名前は出なかった。そのことにだけは確信があり、自信がある。そもそもわたしは最初から会話の中でその人間を避けていた。本来太刀川とのことを話すならば最も最初に話さねばならぬことだが口に出さないと決めていた。
金石元警部補のことである。
昨夜石原の前で、わたしは金石のことには、触れなかった。
そのせいで、最後まで会話がどこか間合いを悪くしていた。太刀川の捜査を一緒にしようという会話なのに、もともとの捜査本部の相棒の名前を伏せているのだ。石原の会話があそこまで上手でなかったら昨夜は破綻していたはずだった。
「質問していいですか?」
そのようなことを明確にいう石原巡査の真っ直ぐな眼差しは、自分を成長させたいと言う気持ちがはっきりとあった。むしろ自分の成長のために先輩が情報をくれないのはおかしいと言う程の熱さえこもっていた。
その姿はわたしには懐かしい。石原の鋭い質問を受け止めながら、かつては同じように先輩刑事に楯突いていた自分の若い頃を思い出していた。
そんな会話の中で、わたしは金石には触れなかったのだ。それは明らかに不誠実なことだった。この年齢になると、自分が昨夜不誠実な酒を飲んだかもしれないことが、まあまあ気持ちを憂鬱にする。わたしは二日酔いの脳に、休息のように缶ビールを煽らせ、空虚な心で川面を眺めていた。自分の迷惑メールを手持ち無沙汰で見てしまったのは、そんな時だった。
ToZ
本末転倒。
飲みすぎは、やめておけ。
若者に迷惑をかけないようにしろ。
K
私と金石は、五年前、特別捜査本部の中で一つのチームを組んでいた。
金石はとにかく体が大きかった。わたしも一応百七十八センチメートルはあるが、それを見下ろすような巨漢だった。二メートル弱だろうか。聞いても微笑んで誤魔化すばかりで、最後まで身長を教えることはなかった。太っているわけでもないが、体重も普通に百キロは超えていただろう。肥満の脂肪ではなく筋肉をつけていた。
引き締めていたのは体だけではない、むしろ精神的なものがすばらしかった。彼の捜査に対する姿勢に触れると、わたしはしばしば迷いが消え去った。どんな優秀な人間も毎日ずっと一緒にいると嫌になるものだが、奴にはそれがなかった。ずっと一緒に仕事をしていたい。そういう気持ちにさせられる。捜査を一緒にする喜びを感じさせてくれる。そういう稀有な存在だった。
前向きな気持ちが継続したのは、奴(金石)が見せる様々な人間的な魅力のせいでもあっただろう。体格の割に繊細で人に見えないところで人一倍悩み考え続ける。その悩みは、常に真実をどう把握するかと言う、まっすぐな前提を持ちながら、それでいて組織を超越した視座さえ感じさせる目標の設計がある。
彼と一緒に捜査をしていると、常々警察官と言うものはどうあるべきかと言うことを考えさせられる。そしていつの間にかわたしは金石の理想に叶うように捜査を行おうとしている。彼の理想は大きく純粋だった。純粋に真実を追求する。当然、警察の組織の都合などは、後回しで、犯罪における真実の追求だけに真っ直ぐ集中していくことになる。
女子大生が死亡し、合同捜査本部が立ち上がると我々はさらなる連携を深めた。
殺人の捜査一課と、知能犯、経済専門の捜査二課とが良い形で連携を始め、金石とわたしとはその象徴とも言える組み合わせになった。
金石は迅速だった。さっそく内偵していた沖縄の死亡事件を、六本木に紐付けた。パラダイム社関連会社の社長が、なぜか沖縄のホテルで自殺した。金石はこの人間をかなり以前から内偵していて、死の前日、沖縄に不自然に向かったのも知っていた。だから金石自身、不審死を聞いてすぐに沖縄に向かってもいた。しかし非公式の警視庁捜査員の沖縄入りは曖昧な対処を受けた。沖縄県警はすでに、自殺と確定させていたのである。自殺するには不自然なほどの全身の切り傷のあった遺体を検視することさえさせてもらえなかった。この頃から、不思議な何かの壁が発生していると、金石は思っていた。
「全部は、まだ銭谷にも言えない。勘弁してくれ。」
奴は最後の頃それが口癖だった。金石は情報を掴みはじめていた。毎晩我々は顔を合わせたがわたしは金石が事件の核心に近づいたのは明らかだった。情報への嫉妬と仲間としての喜びも混ざったが、それ以上に、わたしは何かの危険のようなものを感じ始めていた。もうすぐ我々は恐ろしい闇を暴くのだという予感が少しずつ恐怖を帯び始めた。もし全てを暴露するならばそれは、警察の側にも何らかの被害が及ぶのではないか。
「声に出して言えば、情報それ...