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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 38 章 三十五 雑居扉  (御園生探偵)

三十五 雑居扉  (御園生探偵)

 マツダのキャロル。
 それは昭和から走り続ける古びて色の抜けた薄緑の軽井澤探偵通信社社用車だった。鬱蒼と繁る青山墓地の南端の樹林の下で、大自然に負けまいと、人工塗装のトタンが力なく太陽の光を返している。
 西麻布まで五分も歩かない割りに殆ど人気(ひとけ)のない一角に佇む、古く小さな三階建の、手前が少しだけ墓地との向き合いで無計画に空いている区画に小さく二割ほどタイヤが出る、若干の違法駐車をしているのがその年代物の車だった。
 六本木ヒルズやミッドタウンの新しい時代の建築群から取り残され、青山墓地の坂の下の崖沿いの一角で、周囲の古い昭和色の建物に染み付いたようにくすんだ薄緑色のマツダのキャロルは、なんでもタクシー嫌いの軽井澤さんが前職の頃から乗っていた車なのだとか。
 僕と軽井澤さんはキャロルの扉を開けると無言で乗り込んだ。掠れ果てた、いつものエンジン音をさせて、ゆっくりと動き始めるのを確認しながら、今一度、朝から元気がない軽井澤さんと話して、例の河川敷でかかってきたという、不気味な電話の話を聞いた。
 いろいろ可能性はあるのかもしれないけれども、僕は、不安を解消する一番は実際にそこに行ってみるべきではないかと意見した。軽井澤さんは少し渋々だったけれども、一緒に新宿歌舞伎町に向かうことにした。外苑西通りに出て、北上をする。クーラーがいまひとつなせいで、車窓を開けるのが好きになっている我々は、左右全開にしていた。早朝の風は既に秋の冷気を含んでいた。
 職安通り南のバッティングセンター近くの駐車場にマツダのキャロルを停め、車を降りた我々は、周辺のマンションを見上げた。電話の中で軽井澤さんは、モリヤと名乗る男の声と、ハチマルハチ、と言う部屋の番号についてだけは記憶出来ていたが、マンションの住所番地は「歌舞伎町メゾン云々」とだけしか聞いていなかった。さすがに、モリヤと名乗る男の電話番号にかける気にもならない。
 だが、便利なもので、歌舞伎町メゾン、を地図検索すると、すぐにその場所はわかった。その精度はいつも通り素晴らしかった。この便利さのせいで、待ち合わせの場所という考えも消え、道を覚えることもしない、と、軽井澤さんは以前言っていた。Googleを使わずに街に出ていた時代っていうのはどういう感覚だっただろう。僕には道を交番で尋ねたりするなんて想像ができない。
「恐ろしい便利さと正確さですね。」
 見つかった建物の前で、我々はCaliforniaの巨大企業の賛辞を言っていた。もっとも、そのGoogleの導線が連れてきた客が風間かも知れないのであり、おそらく今回の男もそうなのだが。
 再開発の波に乗り遅れた古い雑居ビルが集まる一角に、そのマンションはあった。三十年以上前はもしかすると人気だった風情を少しだけ残す大きめの雑居ビルだった。808号室の郵便受けには、紙に手書きで平成企画株式会社と書いてあった。電話をかけてきた「モリヤ」という人間の自宅ではなく事務所なのだと思った。われわれは直接、部屋番号808に向かった。雑居ビルは入り口に警備も鍵も何もなかった
「誰でも、八階の玄関までは辿り着ける、ということですね。」
 軽井澤さんは、古臭く加速の遅いエレベーターの中で、暗くそう言った。僕は学生時代の卒業旅行で行った南米ブエノスアイレスの、ものすごく古い、人力かと思われるようなエレベーターのことを思い出した。永遠に次の階に辿り着くことのできない寂寥とした間合いを持つ、独房的な箱。時空を変換するかのような、不思議なあの乗降機に歌舞伎町の雑居ビルのその箱は似ていた。
 速度の遅さを忘れた頃に、チャイムのような古い音がしてわれわれは八階にたどり着いた
「軽井澤さんの想像が確かなら、電話の主のモリヤという人間が、電話の最中に何者かに取り押さえられ、リンチをされた、かもしれない。」
「最悪の場合、という意味ですが、そうですね。」
「その上で、偶然、電話に出てしまった、我々軽井澤事務所に、一部始終を聞かれたと、その場の、加害者たちは思っている、と。」
「どうかその予想は当たらないで欲しいと思ってはおりますが。」
「いえ。ここに来たのは、気持ちをすっきりさせるのが目的ですよ、軽井澤さん。」
「そうですね。そう言っていただけるのはありがたいことですが。」
 軽井澤さんは引き続き元気がなかった。僕には、軽井澤さんという愛すべき人間の一端が、他ならぬ軽井澤さん自身を苦しめているように思った。
 エレベーターを出て通路を右手に歩いて808号室の玄関前までくると、先ほどのバッティングセンターが死角気味に少しだけ見下ろせた。ビル同士が手を伸ばせば届くほどに隣接していて、そのせいで視界が狭い。壁と壁とが合わさる視界の端の方にだけ青空が小さく縦に切り取られていた。目の前には隣のビルの黒く煤けた外壁が差し迫り、トコブシのように壁に貼りついた空調がぶううんと、街の溜息のような音を奏でていた。
 軽井澤さんが、鞄の中から、防犯用の感電機(スタンガン)を取り出し構えるのを確認しながら、僕はゆっくりと呼び鈴を押した。
「……。」
 誰も出ない。
 長い沈黙の間、軽井澤さんと僕は見つめ合った。気配がないとも言えない。日常の匂いというか、誰かがここに通ったり暮らしたりしていると言う空気は僕でも感じられた。人がいるとも思えた。
 もういちどまた、ゆっくりと呼び鈴を押してみる。
「……。」
 しばらく、溜息のような空調音だけの沈黙は続いた。まんじりとした時間が流れた。僕は、軽井澤さんと静かに目を合わせ覚悟を決めた。深呼吸をして、クリーム色のドアの、ドアノブをつかんだ。そうして、ゆっくりと回した。
 808号室の、ドアは空いていた。

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