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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 36 章 三十三 本郷文庫 (太刀川龍一)

三十三 本郷文庫 (太刀川龍一)

 太刀川は、六本木から乗り込んだ日比谷線を霞ヶ関で丸の内線に乗り換えた。そのまま銀座や大手町の方面に向かった。
 今日の文庫本は「江戸と東京」××某、という聞いたことのない作家の新書で、戦後すぐに書かれたものらしい。
「…丸の内線は、地下鉄でありながらいくつかの場所で大胆に地上を走る。その理由は徳川時代まで遡ることを知る人は少ない。東京の地下鉄の歴史は古く、1916年の日露戦争の直後に計画され、昭和二年に東洋で最初に産声を上げた。ということはそれまで人類はさほど都市の地下に電車を走らせてはいないのである。
 パリやニューヨークに物真似して大都市の交通網を作り始めて少し勝手が違ったのは、旧東京市の地形である。江戸の街は、西洋の大都市のように平らな場所がさほど続かず、凹凸、起伏が激しい。あちこちに谷川や濠や暗渠がある。渋谷、青山、赤坂、溜池、新橋、ここまで谷や川や坂に纏わる地名が多い大都市は世界には珍しい。深い濠が江戸城の周りを切り刻んでいるこの東洋随一の大都市で、ニューヨークのように単純に縦横地下に通すことはできなかった。かと言って、濠の下にもう一つ潜った深度では、地上からの階段が深くなりすぎる。当然エスカレーターなどがまだない時代である。ひらべったいニューヨーク五番街の真下をただ通すのとは設計が全く違った。
 お茶の水濠や、四ツ谷濠などはそのため、地下鉄をあえて地上に出した。家康の濠が深過ぎるため、その底まで掘り下げるのではなく、あえて潜らず、上に出した、というわけで、水面の上を走らせたのである……。」
 太刀川は文庫の文字を追いながら、地下鉄に揺られた。街歩きをする場合、こういう本などを予め用意する。歩く場所に合わせて書籍を選ぶ。本は深く長い、人間が一定の時間を紙に費やした怨念ともいうべきものが匂うものがいい。WEBの文字とは違う時間が明らかに自分に流れる。
 太刀川は前の会社を辞めてから、本を読む時間だけが増えた。自分自身がここまで文字列というものを好んでいたことを如実に知った。
 趣味になっている街歩きをする際に書籍で下調べをしてから実際にその場所に行ってみると東京という街は、また数倍面白いということを知った。恐ろしいほどに歴史が論理的に組み込まれているのだ。例えば東京の堀が深いのも、大阪城の濠を攻めたことの因果があるだろう。放射同心円状に見えて微妙に渦巻貝のように広がる東京の幹線道路も城の縄張り防御が基礎にある、奥の深い設計である。そうやって眺めると長閑なお堀の軽鴨もまた深い意味合いで眺められるのである。歴史の街には人間の有り様が混み行った入れ墨のように刻み込まれている。
 地下鉄丸の内線は、お茶の水濠を過ぎた。「江戸と東京」にあったとおり、地下鉄なのに御茶ノ水では水の上を走っている。脳裏に韻を踏んだ言葉を味わいつつ、太刀川は次の、本郷三丁目駅で降りた。
 旧加賀藩、東大赤門の最寄りで知られる本郷の小さな駅には、その朝も乗降客は大学の関係者らしきがぽつりぽつりとある程度だった。
 駅の改札の外で太刀川は立ち止まった。ポケットから先程の文庫本を取り出して、壁の書架を見つめた。そこには、
「本郷文庫」
 と書かれた、縦書きの題字が貼られていた。
 本郷三丁目駅の出口の壁に、掲示板がありその隣に、小さな棚がある。そこに新旧織り交ぜの古本の文庫本が所狭しと、いくつも並んでいて、
「本郷文庫」
 と、右端に画鋲で打たれていた。
 それは、一部の地下鉄の駅に設置されている、古本の無料貸し出しだった。利用者は好きな時に好きな本をそこから取り出して記帳もせずに自由に持っていく。そのかわり通常の本屋と違い、カテゴリで並んでもなければ、お世辞にも美しく保管されてあるとは言い難く、古本には落書きやら誰かの読んだ跡のような線引きが多くあった。
 太刀川は学生時代から、本といえばもっぱら、古本であった。幾つかの駅にあった無料の貸し出しを使った。本郷文庫もそのひとつだった。時には地下鉄に乗りもしないのに、歩いて菊坂の下宿からこの本郷文庫にきて、好きな本を拾っては、読んだ本を戻すのを繰り返していた。
 古本を汚いという人もいるが、濫読で一日何冊も読むものを毎日新品で買うことは、貧乏学生には辛い。学生時代の横溢する好奇心に対する対価を、適切に節約ができるのがこの本郷文庫の貸出である。
 加えて太刀川にはもうひとつ、本郷文庫を面白がる、少し別の「意外な」理由もあった。それは「本に落書きが多い」という理由だった。
 古本も、このように雑に扱われた青空文庫になると、色々な人間が回し読みしているせいで、落書きも一様ではない。古い本には半世紀前の学生運動の頃の書き込みさえあった。メモ書きがカタカナのものは大正生まれの人間かもしれない。関係ない恋の悩みを長々と欄外に綴るものもある。老若男女を問わず、ほぼ自由に、いやむしろ自分勝手に筆跡が横行する。謂わば古本自体が、匿名のネットワークであり、スレッド(掲示版)でもあった。
 新品の本には無い、その小説の中に書き込まれた赤い線や言葉が、誰か偉い人や、作家のような読書子が書きとめたことかも知れない、という好奇の気分もある。逆に無名の、名もない人の感想文が妙に心を打つということもある。武者小路実篤の小説の中の、愛、と言う言葉に丸だけ付けているような、こともある。なぜだか知らないが涙の場面に、赤いインクが涙に濡れたようににじんでいる場合もある。とある表現が上手いという文章に、自分勝手に太ぶととメモや赤線を入れている読者もあったし、扉や背表紙の欄外に、長々と感想を勝手に書いてあるものもあった。読者なのか批評家なのか。革命政権を云々と祈るような宣言もあれば、三島由紀夫の金閣寺の感想を作者本人宛に書いているものもあった。
 本という「個」の時間世界の中に、なぜか、他人や第三者が介入する。それは学生街の古本置き場に許された特殊な世界だったのかも知らない。印刷所から郵送された新品の本では味わうことはない、人間臭がそこにあった。
 太刀川は、しばらく、本郷文庫の前で佇み本を手に取ったりしていた。持ってきた二冊目の、梶井基次郎の「檸檬」という小説をそこにおくと、他のものを一冊だけ手に取った。この文庫のルールは一冊をおけば一冊持って帰ると決まってるわけではないが、なんとなく昔からそういう習癖が太刀川にはあった。
 ただし、人の見方によっては、檸檬をおく前後だけ、太刀川が辺りをじっと眺めた、ようにも思えたのだが。

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