三十二 分裂 (レイナ)
人格の分裂はネット上では日常的なことだと、レイナは思っている。
インターネットには最初からそういう魅惑がある。例えば別の人格になっても構わない。別の人格で誰かと言葉を交わすこともできる。そうやって人間関係を擬似的に構築して、誰かの生活を覗き見することさえできる。透明人間のようにして相手だけ調べていくネットの空間に、人間が中毒になることがあるのは、自然なことだとレイナは思う。そうしてそのさきに人格が二つ三つと割れていく場面がある。
レイナは、初めて佐島恭平になった日を思い出していた。
誰一人自分を知らない、そう確信して、街を歩くのはなかなかの気分だ。ほんとうの意味で、自由そのものなのかも知れない。二度と訪れはしない異国を旅をする自由はこんな感じだろう。自分の人格も、自己紹介も、すべてウソで良いのだ。過去にどんな失敗や恥ずかしいことをしたとしても、関係がない。全裸で歩いてもいい。なぜなら自分はその社会に本当はいないのだから。
佐島恭平になって歩くとき、レイナは背が高いことを、少しだけ喜んだ。自分で言うのもなんだが男としての、スーツが似合ったし、中に入れた胸板や肩の襦袢も、いい形でおさまった。そこにいるのは自分ではなく、誰も知らない見たこともない人間なのだ。
幸福感があった。
自分がいないことの幸せは不思議だった。
消えていくことの幸せ、は、自殺者の気分と近いのかも知れない。
自分だけでなく、世界も同じような変化の中にある思う。生身の自分自身は一個しかないのに、複数のレプリカントが生まれては消え、人間が分離可能になっている。そうしてもしかすると、肝心の自分自身が消えてることもあったりする。むかしのSFで自分を殺して人造人間になる話があったが、もうすでに現実に近づいている。
パソコンの中では新しい人格が公然と市民権を得た。twitterの中ではいくらでも自分を偽造し、増殖させることができた。Googleのメールは何個でもアカウントが作れる。
自分が目撃されない。
この幸せのことをレイナは「その人」に話したかった。
レイナがどういうふうに悩んで、どういう風に解決されて今があるのかを、その人に話したかった。
けれども、その人とはもう会えない。
いや正確に言えば、その人に会えなくなって、レイナは必死に、この変装という作業を執拗に始めたのかも知れない。
少なくとも今の自分があるのは「その人」のおかげだ。
*
「ピアスを開けたいの?」
「その人」はまん丸の目でレイナにきいた。最初のピアスを開けた時のことだ。
「うん。ピアスを開けてみたい」
「いいじゃない。自由にしましょう。」
そう言ってレイナに優しく微笑んだ。
まだ、お互いを自己紹介もできていない時だった。
春の前のまだ寒い冬の日だった。あの時カレンダーを見て二月の終わりの二十四日だと覚えたせいで、ピアスを開けた一日が少し手触りを強く思い出すことができる。
その女性(ひと)はレイナを連れて、ピアスの開けられるお店まで、電車で連れてってくれるという。彼女は施設の大人たちと話をしてくれて、あり得ないことに外出を許してもらった。
施設の外に出る大きな門の横で、その女性の手を強く握ったのをレイナは思い出せる。
田舎の駅までバスに乗った。前の方におばあさんが一人だけ、他の客はいなかった。バスの座席は古くて赤いフェルトの角が剥げていた。山を降りていく感じがずっとあったけど、その時はバスがどういう高度で走ってるのかを考える余裕はなかった。山林を抜けて部落を通り、信号機のある街まで来て、ようやく、駅の前に辿り着いた。それまでずっと、レイナはその人の手を離さずにいた。
ホームで待つと長い列車がきた。
「立川まで行けば、大丈夫ね。」
線路は次の駅が見えるくらい真っ直ぐで、山の方角に伸びていたのを覚えている。バスを降りてもずっと騒音は続いていて、ふと見上げると、空に黒い飛行機が飛んでいた。不思議だった。黒い飛行機が米軍のものだと知ったのはずっと後のことだ。
電車はすごい速度で走った。
揺れが怖かった。列車同士がすれ違うたびにすごく揺れた。
その女性(ひと)は微笑みながらわたしを見て、揺れるたびに繋いだ手を強く握り直してくれた。寒さに対抗して暖房を強めた車内だったから、その人と繋いだ手のひらの汗ばんだ。
「大丈夫。事故なんて一度もないくらい、安全なのよ。」
「……。」
「あなたを、なんて呼べばいい?」
「なんて?」
「あなたのこと。なんて呼んだらいいの?」
「あたしは、レイナ」
「うん、じゃあ、レイナさん、でいいね。」
「うん。」
「あなたは、なんて呼んでくれるの?」
「……。」
その時、レイナが握っていた手が少し汗ばんだ気がした。自分の汗か。その人の汗か。わからなかった。
「なんて呼べばいいですか?」
レイナはそう聞いた。
「セツコがいいな。下の名前」
「……。」
「さん付けなくてもいいよ。」
そう言ってその人は笑った。笑うときにエクボが出来て、まん丸な目がくしゃってなる。
ピアスを開けた、二月の二十四日。
その日が施設で初めてレイナが自分以外の誰かを名前で呼んだ日になった。
*
レイナはあの日の列車のことを、昨日の軽井澤さん達とのテレビ会議の時に思い出した。理由はわからない。ピアスを開けたいと言ったレイナを慮って、節子さんが施設の人に無理を言って電車に乗せて遠出をしてくれたのは、相当な事だったはずだ。
きっと決意のようなものがあったのだと思う。節子さんのそういう覚悟は、他の大人たちと全く違った。他の大人はそんなことをする訳がなかった。何もしてくれないと分かっていて、レイナはピアスを開けたいという突拍子もないことを言ってみたのだから。大人の人たちは、みんな曖昧な笑顔を道具にして、事勿れにレイナを見ていた。なるべく距離を置いていたのを知っている。
子供だから未だわからないと思うのは間違いだ。むしろ子供は大人のそういう表情だけを見ているのだ。
そういう子供の頃のレイナの予想をその人、節子さんは堂々と覆した。ピアスを開けるためにわざわざ施設を出て街に行こうと言ったのだ。
あの時の節子さんと、全く関係のない軽井澤さんとが自分の中で繋がっているように思うのはなぜなのだろう。このことはずっと自分の中でも不思議だった。でもその謎が、軽井澤さんと仕事をする理由だと思っている。ハッカーなんてお金があれば誰でも雇えると思ってる人が多いけれども、軽井澤さんにはお金で雇われている気がしない。何故だか知らないが軽井澤さんには、そういう不思議さがある。なんだろう。何を求めているのかも、わからないような、もしかするともう求めている物自体がなくなっているような、そういう牧歌的ななにかが軽井澤さんにはあるのだ。