三十一 布団 (銭谷警部補)
昨夜の上野は、明らかに飲み過ぎだった。
わたしは自宅の布団の中で二日酔いをなだめていた。
酒が美味くなるのは、後ろ向きではなく前を向いた時なのだと思う。壁に突き当たっていても前を向いていれば美味い。何かを追い求めていることを前向きといい、追い求めることを諦めた状態を後ろ向きと言うならば、わたしは、太刀川に向けて少し後ろ向きになっていたのかもしれない。
布団の中で酔いを冷ましながら昨日の石原との泥酔の中の会話をなぞっていた。もっとも泥酔が確かだったのはわたしの方で、若い石原はどれだけ酔っていたのかはわからない。
何杯目のホッピーだっただろうか。
「たとえば、太刀川が、インターネットを離れてたと主張していることについて?どうお考えですか?」
「主張している?」
「ええ。昨日の小板橋巡査長との取り調べの際にそういう会話があったと思います。」
「太刀川が主張していたように聞こえたか。」
「はい。インターネットなんかはもう関わってもいないし、アカウントもないとわざわざ繰り返していたように思えました。」
石原はタバコを左手で吸いながら、右手に座るわたしの方角を漠然と眺める。目は見てはいない。目を見るのは、話がひととおり回ったあとだ。結果、わたしは安らかに酒を煽りながら話すことになる。間合いや空気が良かった。いつもより饒舌になったのはそのせいだろう。
「どうだろうか。わたしは少なくとも、太刀川がインターネットを離れたという言葉は疑って聞いている。」
「なるほど。」
「ただ、そのことは過去にも随分調査をした。結論、全てアカウントを落としているのは確かだ。少なくとも電話番号さえ持っていない。なので奴から個人情報をサイバー空間で得れることはなかった。いや正確には五年前からなくなっている。」
「五年もの間ネットに触れない、となると、相当不便ですよね。」
「まあ、そうかもしれない。」
「太刀川くらいになると、幾らでも抜け道を作ろうと思えば作れるのかもしれませんが。」
その時、石原は小さく私を傷つけないように話した気がした。わたしはネットを捨てた男として太刀川のことを奇妙に思ってもいる。事実としてあの男は、携帯電話を持ち歩いてはいないし、自宅にインターネット回線もない。そのことを石原は偽証(フェイク)ではないかと感じているらしいが、わたしはといえば、少し、太刀川の気持ちもわかると思っていた。色々なものを追跡され、ネットの側から警察に丸裸にされた。いつまで監視されているのかもわからない。管理・監視される気分は嫌なものだろう。実際に、捜査や世間からの攻撃で太刀川は疲れ果てていた時期があった。
「そもそも、その事自体が、嘘にも思うのです。」
石原は主張するように言葉を置いた。タバコを持つ左手が立ち飲みの壁の方に少し高くなる。
「うそ?」
「ええ。SNSなどあらゆる場所から退出した事で、ほとんど世の中は彼のこと、太刀川のことを忘れていきました。太刀川はもはや過去の人です。」
「……。」
「金を稼いだ太刀川が、もう引退の気分ならそれでいいと思います。でも銭谷警部補、太刀川龍一のあの眼差しはわたしにはそういう状態にはどうしても思えません。むしろ、世の中に対する強い何かの気持ちを隠している気さえします。」
「なるほど。」
「どうおもいますか?」
「正しいかもな。」
「ほんとうですか?」
石原は少し艶のある顔をした。
「あるといえば、あるかもしれない。と言うのも奴は、なぜか毎日誰かしらと会い続けていた。」
金石と飲んでいたころ、会話の中で自分の脳の奥の方に消えていた記憶が再生される感覚があった。饒舌になっていくスイッチを押すやつだ。つまりは、酒がうまかった。
「ひととですか。」
「連絡の手段も想像できないが、夕方になると、銀座だ、赤坂だで何故か飲んでいた。」
「どうやって。」
「大企業の幹部や議員などだ。事件が終わってから定期的に尾行をつけていたから間違いない。」
「なるほど。」
「やつは行動に幾つかの特徴があったんだ。」
「特徴?」
「うむ。例えば、毎朝地下鉄に乗る。」
「地下鉄?」
「六本木ヒルズの別の部屋に引っ越したんだが、流石に事件後は流石に夜な夜なの動きは無くなった。ただ朝が早くなった。朝から地下鉄に乗る。」
「朝からですか。」
「ああ。でも地下鉄に乗る割には、大抵日中、どこかにアポがあるわけではないのだ。アポは、夕方までない。」
「アポもなく朝に?」
「ああ。きまって朝六時半ころだ」
「六時半ですか。夜遊びをしていた人間とは思えないですね。」
「そのことについては、本人に一度聞いたこともある。そうしたらどう答えたと思う?」
「想像がつきません。」
わたしはそこでようやくタバコを口に持ってこれた。一呼吸してから、
「東京の街を散策してるらしい。」
「街を?東京の?」
「そうだ。この町の歴史や文化を、仕事から離れてみるとちゃんと学び直したくなったのだと。そうしてそんな話をするのに、人と食事に行ったりしてるらしい。」
二日酔いの布団の中でわたしは必死に昨夜の記憶を正確に再現しようと必死だった。ホッピーの何杯目なのかは、もう数えられなくなっていた。アルコールで意識が後半から遠ざかり始めていく。そうして前後の脈絡の全く思い出せない時間帯で、とある石原の言葉が残っている。その時石原は、タバコを一旦消して直角にわたしの方を向き直した。言葉を明確にしますよという表情をしたせいで、泥酔の中で脳がそこだけ薄れる記憶の中で明確な現実を作っている。
「警部補。これから、よろしくお願い申し上げます。」
「よろしく?」
「はい。私で良ければ銭谷警部補の作業に、ぜひ参加させて頂きたいです。太刀川の尾行がたのしみです。無論、この件は隠密、銭谷警部補とわたくしだけのことにしてください。その方が作業の性質上よろしいかと考えます。」
石原がその言葉を言った前後の会話がわたしには思い出せないままだった。いくら脳の中を探しても、前後の会話が呼び戻されることはなかった。