← 目次へ
星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
第33章をXでシェア
第 33 章 三十  四ノ橋  (軽井澤新太)

三十  四ノ橋  (軽井澤新太)

 多摩川の河川敷から真っ直ぐに帰宅したのち、わたくしは四ノ橋の自宅で一人唸っておりました。お酒の力で無理やり眠りについても、小一時間もせずに目が開きます。起きるたびにスマートホンで新宿や歌舞伎町などの言葉でニュース検索を続けましたが、河川敷での断末魔のような電話に紐つく報道は未だございません。
 普段しない事ですが、念のためテレビをつけ朝四時台から始まる各局のニュースも眺めましたが、どこにもわたくしが想像したような報道はございません。その間もただただ昨日の河川敷で手に取った電話向こうの恐るべき想像がわたくしの脳裏に繰り返されます。
 音とは恐ろしいものです。
 例えば、人間を殺す音と、食肉を骨ごと切断する音と区別はつきますまい。
 殺人音はすなわち、日常の生活音の中にあるのでございます。
 文字の物語と言うのも人類に多大なる想像力をもたらしてきたものと思いますが、今一度、音だけの物語と言うものも試してみると、その凄まじさに驚きます。思えば庶民が文字を知らぬ時代から、祇園精舎の鐘の音と、平家物語が口頭伝承の物語として十二分にあの時代の合戦を描ききったように、音は実のところ文字のない音だけでも十分なのです。音だけで人間の脳内で縦横無尽に贅沢過ぎるくらいに暴れうるのです。
 自己の精神の全量が掻き立てられ、自由か不自由かも分からぬ冥路へと向かって全神経が疾走をする。音が勝手に妄想させる。昨日の什器のようなもので肉を打ち裂く音が、殺人の光景となってわたくしの脳裏を席巻します。叫びを抑えた嗚咽はわたくしの網膜に具体的な人間の血の場面を妄想させ、映画のような画面となって脳髄を赤赤と染めます。
 ややもすれば失われつつある、四ノ橋の自宅のちっぽけな現実に戻ろうとわたくしは、必死に自意識に訴えます。しかし自意識に戻ろうとすればするほど今度はまたもう一つの恐怖がわたくしを包みます。
 たとえば、軽井澤探偵通信社のホームページには、私の電話番号の記載をさせていただいております。住所も記載されております。Googleの検索でもすれば、辿り着きやすい場所になります。そのために晒しているのですからその通りなのですが、じつは、ネットの世界というのは追いかける時は便利で気がつかないものですが、追われだすと逃げられる場所などございません。ホームページ、などと気軽に設置しますがもし悪魔がそれを見つけ、いざ追いかけてくることになればこれほど対処の手段のないものはございません。住所も電話番号も晒されているのですから。
 わたくしは、布団を被りながら、自らの置かれた環境を幾度も分析を繰り返しました。
 昨日の河川敷の電話は、そこから聞こえた音を総合すると、室内からのものだと思われました。逆に言えば、室内つまり事務所のような場所で電話をしていたような人間が、突然、電話を奪われリンチのようなことにあったように思われるのです。そんなことは素人では難しいことです。素人だと想定することには無理がございます。何者かが暮らす部屋に、部屋の構造も分からずに人数で押し掛け、電話中にその人間を取り抑えると言う事ですから。結論として、素人ではなく組織の仕事なのだと思われます。
 そんな組織犯罪者が襲撃の後、電話がかかりっぱなしだったことを知ったかもしれないのです。どういう行動に出るのか。単純な恐怖です。被害妄想も甚だしい、と言うご指摘は甘んじて受けましょう。わたくしとしましては、この一連の想像が当たってしまわないことを祈るばかりなのでございます。
 始まってほしくなくとも、一日は始まります。
 本日、火曜日は毎週、墓地裏の探偵事務所オフィスでの定例ミーティングがあるのですが、わたくしは四ノ橋の自宅を出てからも当然このことが頭から離れませんでした。いつもなら少し優雅な気分になる広尾の垢抜けた界隈から西麻布の交差点に向け段々と色彩が変遷する街並みも、全く脳に呼び込まれずにいました。それどころか、いつもは気にならぬ笄公園の前にある燻んだ水色の犯人護送車の列が妙に気になりました。それらは執拗にわたくしの心理そのもののように冷たく暗鬱に沈んで見えました。
 図X 地図図面
 四ノ橋→広尾→西麻布→青山墓地
 ほとんど役にたつ答えも見つけ出すこともできぬまま西麻布交差点を越え、青山墓地の崖の裏にある我が事務所まで辿りついておりました。
「おはようございます。」
 事務所の扉を開けると御園生くんの大きくて元気な声がありました。
「おはようございます。」
 と声を返すのがやっとの有様でございました。
「あれ、軽井澤さん、どうしましたか」
「あ、はい」
「なんだか軽井澤さん、いつもと違うかなと思いまして。寝不足ですか」
 好青年でありながら、細かい点にも意外と気が利く御園生くんは、朝の挨拶から私の一連の状況を察したのかもしれません。
 事務所に入って定例ミーティングの準備をする間も幾度となく、御園生君とわたくしはお互いの違和感の中にありました。二人しかいない事務所ですから日常との差異はなかなかごまかせるものではございません。ごまかしながら過ごす時間というのも苦しいものでしょう。
 やむなく、わたくしは昨日からの一部始終を簡単に説明をしました。
 突然の電話。軽井澤と私の実名を名指してきた男。それから始まった、河川敷でなければ耐えうることのなかった阿鼻叫喚の「まだ見ぬ音の物語」を、わたくしは淡々となるべく概略から、語りました。
「なるほど。」
「まぁ少し、考えすぎなのかもしれませんが。」
「ううん。そうですかね。」
「まあ、どうでしょう。」
「そうですね。」
 それからは、定例会議らしく、昨日の風間の話や、仕掛かっているいくつかの仕事の確認を行いました。手際良く、てきぱきと、いくつかの支払いの事や、今後の予算の事なども話しました。多くの意味でこの御園生と言う青年に私は助けられておりまして、この火曜日定例会はとても大事になっております。
 あらかた、仕事の確認が終わったところで、秘書のいない事務所らしく缶コーヒーを冷蔵庫から取って並べました。煙草に火をつけて一服といったところで、御園生くんは言葉を選ぶようにしながら、
「やっぱり、軽井澤さん。」
「はい」
「軽井澤さん、新宿歌舞伎町に行きませんか?」
 実は私は心のどこかで歌舞伎町には行かなければいけないと思っていました。ただ、それと同時に筋の悪いであろう仕事に御園生君まで巻き込みたくないと言う気持ちもありました。
「もしかしたら、その男の、ただの持病か何かの発作とかかもしれないですしね。だとしたら、今からでも行ってあげたほうが、後々、嫌な思いもしないで済みますからね。」
 御園生くんは、もっともなことを言いました。どこかで彼の優しさもあるのを、言葉選びに感じながらわたくしは頷きました。
「なるほど。」
「いずれにせよ、こんなことで、軽井澤さんが心配事を抱えるのは損ですよね。僕もいつもの元気な軽井澤さんと仕事したいですから。」
 そう言って、御園生君は快活に笑いました。屈託のない好青年の笑顔で、ああなるほど、彼は女性に人気者なのも理解ができる、と普通に思いました。
 あえて付け加えれば、人の手助けをしたい、という熱気がそ...

文字
明暗
組方向