二十八 アメ横 (銭谷警部補)
わたしは石原のメッセージにアメ横の御徒町駅側を指定した。上野駅より、こちら側の方がアメ横の中に入りやすい。待ち合わせの場所という言葉に、不慣れなせいで、指示には少し困った。自分にとっての誰かと落ち合うのは、通常は殺人現場になるからかもしれない。
石原は日中と変わらぬ濃紺のスーツ姿だった。髪をかき上げながら歩いてきた。
「お時間、ありがとうございます。」
「……。」
私は特に説明もなく、ホッピーを飲ませる地下の串焼き屋に入った。その店は立ち飲みで、とても女性を招待するような店ではなかったが、そもそもわたしは適切な店を知らない。
ゴツ、という音をさせてジョッキのセットが運ばれた。煮込みと、マヨキユウが続き、狭いカウンターが皿で溢れた。沈黙に苦しむ必要もない、いかにも落ち着きのない店の空気が良かった。
「そもそも、なぜ銭谷警部補は太刀川の事件を追うのでしょうか。」
石原は少しずつ酒が入った頃に、直球の質問を始めた。
「別に、過去を追ってるのは、太刀川の事件だけじゃないさ」
「え。」
「色々な過去のものが常に脳裏にある。」
半分嘘で半分本当だった。非番の日まで頭を使うほど、刑事の仕事ばかり考えている。
「どういうことですか。」
「うまくいえないが。刑事も二十年もやってるといろいろと過去の負債が育つんだ。」
「ふさい?二十年の負債ということですか。」
わたしは金石のことには触れずに、概論から話しをしようと思った。勤務時間外に酒を飲んでいるのだから結論を急ぐ必要はないだろう。
六本木ヒルズの事件のことや、その周辺で自分が関連すると位置付けて内定捜査を続けていたもう二つの事件のことなどを外側から話した。また、彼らの背後で株の取引、つまりマネーロンダリングに近い形での資金の移動もあった可能性についても話した。ただ、その捜査の中にもう一人、捜査二課の刑事である金石がいたことは、言わなかった。最も重要な前提をいうことをわたしは躊躇した。
「失礼いたします。」
石原は、ようやくこの店で初めてのタバコに火をつけた。
吸い方が美しかった。第一印象では強めに感じさせず、むしろ後から追いかけてくる種類の美しさが稀にある。石原の風情にはそういう種類の好ましさがあった。自分が酒に酔ったのか不安になりつつ、思わずタバコをつかんで、
「警視庁の未解決案件というのを、知ってるか?」
「聞いたことはあります。」
「どういうふうに?」
「未解決事件は、384件。班もある。」
石原は、正確にその数字を答えた。
わたしは、あれ、と思った。このように数字を明確にいうのは、興味を持って調べたことがある証左でもある。
「それとは違いますか?」
「ああ。良い質問だ」
タバコの煙がふんわりと我々の間で雲か霞のように濃くなった。
「384件は、未解決とは言っても、警察が事件と認めていて、警察として悔しくも未解決だと、公表しているものだ。捜査は続いているし、時効に近づいているものもあるが、比較的堂々と仕事ができる。」
「なるほど。」
「まあ、ある意味、大手を振って捜査ができる。」
「はい。」
「わたしの未解決は違う。例えば太刀川はそのひとつだ。」
わたしはジョッキのホッピーを煽ってから呼吸を整えるようにして、
「奴の事件は、警察がもう解決したと宣言してしまっている。未解決ではなく、解決済みなんだ。もはや、事件でもない。警察組織として解決済みだ。」
「……。」
「つまり組織としてもう捜査が終わったので調べる必要はないとなっている事件だ。むしろ調べてはいけない。」
「なるほど。それはわかります。」
「そもそも、納得のいく犯人が出てきて過去を覆す自供したわけではない。いやもはやそういう人間が出てきたら、逆に困るくらいだ。三人も死んでるにもかかわらずだ。」
「三人は初耳です。」
「そうだろうな。世の中的には全く別の事件に思われている。」
そうだ。その三つをつなげて、世の中に出してしまおうと金石とわたしはやっていた。奴(金石)は確信していた。証拠、証言は集まりつつある、と繰り返していた。その内容を最後までこのわたしには告げないまま。
わたしは、もう一度わかりやすく、六本木ヒルズでの事件と、沖縄での変死、もう一つの死亡事故を言葉を足しながら、なぞった。最初の二つは報道も良くされたから、石原も知っている。世の中でも、不審なことを言われた事件だった。
「警察組織として、ヒルズの事件は一貫して殺人としての捜査をしていた。殺される理由が、女性の被害者にはあったし、その仮説の方がよほど自然だった。」
「……。」
「それがある日、上層部から、これは事件ではなく事故だとかいうのが、降りてきて、手をひけとなった。突然だった。捜査本部の解散は。」
追加した二回目の煮込みや焼き物数本がゴツンとカウンターに置かれた。石原里美は美しい所作でそれらを並べ直した。こういう労働者向けの飲み屋は男性だけのものではない。むしろ女性の色彩が入ることで映画のような清冽を生じることがある。
「上層部の誰が決めてるのかはわからない。ただ太刀川のことを堂々とやれば上から待ったがかかる。」
「なるほど。」
「だが多くの人間は多少は疑問に思っていた。当初はわたしへの同情もあった。だから、ある程度の捜査をすることは暗黙の中で許されているつもりだった。」
石原はタバコを消しながら、小さく頷いた。
わたしは話をしながら少しずつ、石原の様子を探っていた。それは人間としては嫌な嗅覚を使う作業だった。直感で信用をしているからこういう場所で飲んでいるが、残念ながらパワハラの件もあり、最近の若者というのを無闇に信じきれなくなっていた。
昔からある程度の若い刑事は、警視総監が解決済みにした事件を、裏返し、真実を暴くことに興味を持つ。誰もがたどり着けなかった真実にたどり着く事は、やはりいつの時代も警察官にとって究極の夢なのは変わらない。問題はその一箇所にこだわり続けられるかである。今の若者には選択肢が溢れている。最初はニコニコ頷きながら、参加する。しかし実際の捜査が難解で作業量が多く、簡単に進まないとわかると、少しずつ面倒になり、諦めてしまう。他にたくさん選択肢が存在するのだ。ある意味、小板橋もそういうことだ。ましてや太刀川の件は上層部が「閉じた」仕事なのだ。若い石原巡査もどこかでその波に攫われる時が来る。
わたしはホッピーを煽った。
わたしが黙っている間、石原も黙っていた。
力みが伝わるのかも知れない。
六本木ヒルズの女子大生の死亡は、事故ではなく、殺人だった。それを警察組織が何らかの力学で捜査を終わらせた。少なくとも当時の現場の認識はそれだったはずだ。圧倒的にそういう真実だった。
殺人ではなく、事故になった。
関連は知らないが、捜査本部解散を命じた早乙女が課長に出世をした。
そして、金石は警察官を辞めた。
ゆっくりと時間が経っていくうちに、まるで世の中が忘れるのと同じように、事件は過去になっていった。金石のことを思い出す人間は警視庁にどれだけいるだろうか。現場が殺人事件と疑わなかったものが、薬物の結果の死亡事故に処理され、やがては報道さえされなくなった。太刀川は会社を...