二十三 河川敷の電話(軽井澤新太)
知りもしない番号からの着信画面をしばらく眺めた後に、わたくしは河川敷の土手の上で電話に出ました。今思うとどこかでボクシングの後の前向きな気持ちがそうさせた気がしました。
「モリヤともうします。探偵事務所さまでしょうか?」
「はい。」
「ええと、あれ、名前は軽井澤探偵さんでよかったですかね。」
そういう一見、紳士的な声が守谷と名乗る男との最初でした。
「はい。軽井澤ですが。」
「急ぎのご相談です。はい。特別料金をお願いします。ぜひ、一度お会いしてご相談をさせていただきたいのです。打ち合わせですが、新宿のわたしの事務所、でもよろしいでしょうか。はい。脅迫じみたことをされていまして。」
Googleは連続して客を連れてきたようでした。
「内容は嫌がらせの相手の調査と言うことでよろしいでしょうか。」
「そうです。」
「ではいつ頃にお伺いを」
「実はその、申し訳ないですが、今すぐお願いしてもよろしいでしょうか。」
「いまですか?」
「ええ。事態は大変に急を要しておりまして。住所を申し上げます。新宿区・・・の808号室です。」
電話の声は勝手に自分の都合で言葉を並べました。わたくしは、メモを取ることもしませんでした。
本来であれば、多摩川の河川敷で受けた電話はわたくしは、断ることはない、と申し上げても良いくらいに、気分が良い時間なのです。万事ものごとには縁というものがあり、そして、このわたくしの最も優雅で爽快な時刻に電話を鳴らしていただけたということも、他ならぬひとつの御縁であるはずです。しかし、今は、風間の件で若干、顧客を選びたい気持ちが増しております。通常の仕事も残っております。急かされる仕事の連続は懲り懲りでございましたので、さすがに今すぐというのはお断りさせていただこうかと思い
「実は現在いくつかの業務が立て込んでおりまして、今すぐというのは」
とわたくしは、言葉を返しました。ただ、モリヤと名乗った男は、すぐさま切り返します。
「そこをなんとかお願いできませんか。お金はすぐにでも振り込みますから。」
「いえ、今月は我々は、なかなか課題山積でして…。」
とわたくしがそう話しかけたそのときでした。
「あっ、ちょっと、待てお前!うっ!」
という、モリヤの声と同時に、おそらく電話を落としたような衝撃音が受話器の向こうから致しました。そうしてすぐに、わたくしが声を出そうと躊躇するうちに、モリヤと名乗る男の声は、聞こえなくなり、しばらくガサゴソと雑音を小さくさせていました。
問題はそのあとでした。
なにやら、電話の向こうで、小さく
「やめろ、おい。」
「……。」
「やめろおい、なんだ……。」
という言葉が一瞬すこしだけ聞こえました。塞いだ口から漏れたような声色です。その小さな声はほんの束の間でありながら、恐ろしいほど震えや怯えがつたわる、小さな小さな声でありました。確かにそれは、元々の電話の主である、モリヤと名乗った男の声でした。
ゾッとするくらいに押し殺した物音たちと、異様に力んだ怒気とでも申しましょうか、わたくしの想像では、布類などで口を塞がれたモリヤ氏がその奥底に激しい声を出している、喚き声とでも申しましょうか。そのような意味不明の断続音でございました。ぞっとする声と物音の連続はある種の冷たいものも感じさせました。歯医者で使うようなおかしな音もしました。切断音でしょうか?想像力過剰たるわたくしは、電話の向こうに何か血生臭い地獄があることを思わずにはいられませんでした。
電話はそのまま切れませんでした。
おそらく、ベッドの隙間なのか床の見えないところに落ちたものと思われます。もしくはモリヤ氏が意図的にそうやって、見つかりにくいところに投げたのかもしれません。
そのあとは一定の時間、不気味ななにか、鋸のようなものを、動かしているような音と、そして気が狂ったようにバタバタとし続ける、あぅ、あぅ、という口を塞がれたおぞましい、声を止められた人間の呻(うめ)きのようなものが聞こえました。空想をしすぎとご指摘されるかもしれませんが、いや、音というものは言葉以上に実際を語るのです。そして、目を閉じた人間の想像には、際限がないのでございます。
電話を切ることもできませんでした。電話を切れば、こちらから、また変な音でもしたら困るようにも思い、金縛りを打たれた石像のように携帯を耳に当て、わたくしは河川敷に立ち尽くしておりました。耳だけが壁のようになってその電話の音に張り付いていました。
阿鼻叫喚の封じ込められた叫びが、全くの静寂に変わったのは、十分や十五分の時間ではなかったと思います。散歩の老夫婦が、わたくしの真横から多摩川の河川敷の果て見えなくなるまで歩いて行ったくらいで御座います。それでも不思議と電話の電源は切れずにいます。静寂が続きます。おそらく電話の主のモリヤと名乗る男は、何者かに襲われたのだと、わたくしは想像しました。そして、我々の事務所に救いを求めたのは、その襲撃が今にもくるのだと予感していたからなのではないかと。もしかすると、風間と似て、警察には言いづらい事情もあったのでしょうか。想像が行き過ぎかも知れませぬが、しかしながら、おおよそ全く筋違いとは思われません。
そんなことをわたくしが妄想しているさなか、ようやく電話がぶつりと切れました。
おそろしい音の世界との空想がやっと終わりました。ビッショリと胸板と背中と再び汗まみれになったわたくしは、受話器として持ち続ける左腕がここまで突っ張ることの異常を感じつつ、やっと終わりましたその電話に一瞬解放されまして、河川敷の草むらにしゃがみ込んでしまいました。
が、しかし、心地を取り戻して河原を眺めた刹那に、実は時間差攻撃のような悪魔的な、二つの事実がわたくしの脳裏に落ちてまいりました。
一つ目は、そもそも何故、電話が切れたのだろうか?と言うことです。もしそれが本当に犯罪的な襲撃ならば、あの時電話を切ったのは、犯人に違いないのです。何故なら、モリヤが何らかの形で、助かっているなら、再び電話口でわたくしに助けを求めるはずですから。
二つ目はもっともっと恐ろしいことです。じつは、襲撃者が電話を見つけ、通話の続く電話の画面を見た場合、逆算すれば、襲撃の一部始終が筒抜けだったことは即座に理解されるでしょう。また、番号を調べればすぐに軽井沢事務所は探知されます。
もし殺人事件がそこに存在する場合、殺人犯は我々をその目撃者の一種類として、追いかける可能性がある。もしくは電話の持ち主を必死に探す可能性があるーー。殺人を隠すための殺人がしばしば存在すると言う恐怖がわたくしを襲いました。