実験番号 HSC6508
それは僕が知る限り彼女が通った三回目のときだった。すでに二回僕は彼女が通るのを声もかけずに過ごしていた。
その日、僕が勉強している時に、ある視線が僕を刺すのを通りの方から感じた。僕は思わず参考書から目を上げてその視線を見返した。驚くことにそれが、彼女だったのである。
ぼくは、大学受験で理科系の(考えるのが難しいというか)時間のかかる問題を解いていた。数学や物理が得意だったが、理科系の設問は東大の本受験では二時間に四問程度しかない。どれも長い論述問題だ。つまりひとつ問題を解くために三十分使う。当然模擬試験を練習するにも、一定の集中力で三十分近く没頭する。他のことを考えない。三十分無心に考えても中々答えに辿りつかない問題ばかりである。そうやって参考書を睨んでいる時に、目の前に制服のスカートがあった。
あまりに突然だと、人間は計算を失って勇気だけの単純さを身につけられるのかも知れない。僕は唖然としたまま、彼女を見て、ずいぶん自然に会釈をしてしまったのだ。明確に頷いてしまった。
その会釈に、その人も気がついた。出会いというものは、ある程度の偶然を含む奇跡である。
「**中学の川田木くんだよね?」
彼女は僕の目と机の上に広げられた複雑な方程式の書き込まれたノートとを交互に見やった。
「勉強中だったかな、ごめんね。」
「いやこれは、その。」
「すごい、これ全部数学?」
僕は驚いて何も声を出せないのを誤魔化すように、ゆっくりと頷いた。
「いつもここで勉強してるの?」
「ああ。」
「そうなんだ。」
「……。」
「これってもしかして大学受験?」
「ああ。」
朗らかに目を丸くして彼女はコトコト笑った。奇跡のように思い描いてきた場面がそこにあった。
「全然わかんないや。数学かあ」
「これは、ちょっとその、面倒なやつなんだ。」
「すごいね、**大学を受験するんだね。」
赤本には難関の大学名がいくつも記載されていた。
本当に純粋に言葉を話すのだと思った。ものごとに素直に感動してその感動と同時に意図なく言葉を話せる。そういう爽快な風が吹く。あれこれと思索に耽り、躊躇して言葉という行動に進まない僕とはちがった。
「ここによくいるの?」
「あ、うん」
「私も元々ここが通学路なんだけどね」
知っている。僕は多くの計算を行ってここにいた。しかし彼女は何一つの計算もなくそこに美しく咲いていた。