実験番号 ASY67008
僕らは待ち合わせの約束をしなかった。不思議と僕はあの喫茶店で週に二回は予備校のない日に勉強をする。そこにバイトのない日の彼女がとおる、そのことが良かった。ぼくは彼女が通ると、勉強の手を止めて、
「ちょっと休憩しようかなと思っていた。」
と小さな嘘をついた。最もあながち嘘でもなかったかもしれない。彼女とそうやって会える可能性があるだけで他の時間の集中力は増していた。実際に勉強は捗っていた。
「青空が高いね」
彼女がそう言った日に、僕は思わず机の上が散らかってるのを理由に、
「荒川の方まで歩いてみようか。天気もいい」
と言った。
結果として、一緒に散歩をしたのだ。
喫茶店から公園を抜けて荒川の河川敷があった。遠くまで見渡せるその場所を歩いた。と、隣同士で歩きながらになると口下手の自分でも自然に言葉が出るのを知った。
「アルバイトは忙しいの?」
「週に五回も入れちゃったんだ。卒業旅行に行こうって友達と言っていて。」
「卒業旅行か。」
話をしたいことはたくさんだった。小学校の頃から知っていて、中学校の理科室で一度二人きりになったこと。運動会のこと。廊下で目があったように思えてそれだけで幸せな一ヶ月を過ごしたこと。いまこんなふうに努力をして、体も鍛えて、大学を目指せてるのは、貴方のおかげであること。伝えたい言葉は無限にあった。でも全てを話し始めたらどれだけ間抜けだろう。ぼくは全てを話すものは何も伝えられないという、哲学者の言葉を思い出した。そうして考えていることの、一割でさえも言葉にする事ができないでいた。