八 御園生探偵
竜岡門ビルというそのビルを、警視庁の女性刑事は見上げた。
石原巡査ーー本郷に至る車中で彼女は上司と思われる人間と電話でいくつか激論を交わしていた。彼女はその会話の中で、太刀川龍一という言葉を幾度となく用いた。
会話を盗み聞きするのは好きではない。
だが乗用車の運転席と助手席では、片方が電話を続ければ話は筒抜けだ。僕は自分なりに状況の把握を試みざるを得ない。軽井澤さんが大変な状態になっているのだ。殺人の第一容疑者となりかねない状況だという。ただ何故だか判らないのだが、この石原巡査と、電話の向こうの、銭谷警部補という上司は、それを頭から阻止しようとしている。つまり軽井澤さんとは別の犯人を探そうと動いている。そしてどうやらその作業がうまくいっておらず、別の問題が警視庁内部で起こってしまっているらしい。
軽井澤さんの無実解放のため相当な尽力をしている女性警官に、僕は全面協力をしたい。ただ、一刻を争う捜査作業を、素人の僕が邪魔するわけにもいかず、結果として言葉を断片的に拾うことしかできない。その中である言葉が気になった。
太刀川龍一ー。
そうだ。軽井澤さんと僕がX重工に行った時にまさに待機室で待っていたのがあの男だ。数年前にパラダイム社を立ち上げ、一世を風靡した東大生。若い経営者。メディアを買収しようとしたり、いわゆるこの国の利権たる人たちと対決姿勢を取っていた若い学生起業家。ただ、太刀川龍一は最近ほとんど名前を聞かない。どのメディアも取り上げもしない。あれだけ世の中を騒がせたのだから、SNSなどで自分で発信することもできる時代なのに、その様子もない。
X重工の役員控室ーーそこで僕は久々に太刀川のあの顔を見た。数年前、テレビで見ていた時と変わらぬ、堂々とした、少し生意気と思われるような態度の人物がそこにいた。
この人物が何故か石原巡査と上司との間での会話になっている。
車に乗ってからも、つまり青山墓地から本郷に向かうのだと言って、車に乗ってからも女性警官と彼女の上司との間で議論は続いていた。女性警官ーー石原巡査は太刀川龍一が関係している場所に向かいたいと主張をしている。本郷の竜岡門にあるマンションの一室の重要性を一貫して語っている。しかしどうも、上司である銭谷警部補が反対をしている。
「しかし、いま、江戸島会長に関して追跡と言ってもできることがございません。」
強い口調で女性警官はその言葉を繰り返した。そして、この議論は少し前の青山墓地から続いていた。石原巡査は時折上司との電話を切っては、江戸島会長の携帯番号に電話をかけ直すのだが、先方は既に電源を切っているらしく、音信は不通だった。
おそらく石原巡査が手配した不動産会社員が、そのビルの前に立っていた。竜岡門ビルディングは、四階建、蔦が片面を覆った古いビルだった。
「朝からありがとうございます。」
「どうしたんですか。太刀川くんに問題でも?」
「一応念のため、のことでして。鍵はありますか?」
「はい。ただオーナーは彼なのでまだこの鍵が使えるかわかりませんが。」
エレベーターのない古い建物を一階ずつ女性警官と僕はあがった。不動産屋と佐島氏はビルの下で待たせたままにした。蔦の階段を登る。
「待って。電気がついている」
「電気が?」
「いつも人はいないはずだ。」
石原巡査が緊張を高めたのがわかった。
「誰かがいるってことですか。」
僕は軽井澤さんと歌舞伎町の一室に踏み込んだ記憶を思い出した。恐怖がはっきりと全身を覆った。深呼吸を音が出ないように行う。相手の想像はできない。しかし、三人の人間を殺した人物がそこにいる可能性が、少なくとも高まっているから、石原巡査は緊張をして声を絞ったのだ。
鍵は問題なく差し込まれた。
石原巡査は拳銃を胸から取り出した。
僕はその鍵を回してドアを開ける役割になった。
ドアは外開きなのがドア枠でわかる。素人の僕は鍵を回して思いっきり引っ張れば、その瞬間に石原巡査が拳銃を持って中に入るということだ。
深呼吸をして、僕は鍵を回すと同時に大きくドアを引っ張った。
石原巡査は無言で室内に駆け込んだ。
拳銃を発砲する音は聞こえない。
応援するつもりで僕は数秒後に追って室内に入った。
広めのワンルームだった。
部屋は日中だというのにカーテンが遮光で暗かった。
人の気配はしない。
石原巡査と僕はゆっくり呼吸を整えた。石原巡査は落胆の色を隠せなかった。彼女は僕に対し言葉にはしなかったし、上司にも言わなかったが、この部屋に、生首と切り離された胴体の方が残されているのではないかと、想定していたのだと思った。そんなものは何もなく、ただ、テーブルの上にはパソコンさえなく、不自然なほどの膨大な紙の資料があふれていた。
「なんですかね、これは。」
「なにかの実験の資料ですかね。よくわからない。」
「#実験0839って書いてありますね。」
「こちらもだ。#実験0231。なにかの論文でしょうか。」
「#実験083233? これも全て実験の論文?」
「一体何の実験をここで?」