十九 変装論議 (レイナ)
最初に変装(disguise)をした日。
レイナはその日をはっきり覚えている。
誰かが、気がつくような、ちょっとした変装では意味がないと思っていた。安易なサングラスや、帽子や少し違う化粧をした程度では、自分は満たされない。変装して別の自分になりたいと言う、不気味な自意識を解決させるなんて、簡単じゃないと思う。
準備には一ヶ月はかかったと思う。男物のスーツを選び、中年の少しくたびれたネクタイと、靴と靴下というイメージはしたけど、ありがちに集めたものではダメだと思った。まず、自分がなろうとしている男性像を幾度となく、レイナは言葉で整理をした。
「仕事には疲れているけど、男としては魅力的」
「どこにでもいそうだけど、意外といない。」
「そんなにお金があるわけではないけど最低限の服選びはしていて」
「スーツは結果として、不本意に似合っている。」
文字で整理してその人間をいろいろと作っていった。名前も考えた。佐島恭平。若い頃にみんなに、きょうへい、と呼ばれたスポーツマンだった感じ。会社勤めで、歳をとって行った独身。痩せていて、黒髪。クラスではさほど目立たないタイプ。よく見れば意外に整った顔をしている、など。
自分の中だけで、この世の中に戸籍もない佐島恭平が、どんどん育っていく。そうして一周回ると、自分がその佐島恭平の心をわかるようになっていく。空を見たら何を感じるのかとか、電車に乗ればどこを見るのかとか、なにを考えどう感じるかの、一つの人格が、レイナの脳内に育っていく。そうなってから、初めて、Sajimaの人格になりきってから、ネットでアカウントを作った。Twitterやinstagramに佐島恭平が始まっていく。それぞれに現金をチャージして、身につけるものを買い出しを始めた。佐島の「財布」で少しずつ買っていく。大道具小道具のようにいっぺんに頼まず、現実の間合いでひとつずつ注文し、佐島恭平の気持ちになって届いた段ボールを開く。そうして、試着して確かめてから、追加で買い足していく。買い足しながら、佐島という感覚が研ぎ澄まされていき、人格が安定を見せていく。まるで自分の家に、もうひとつ、同居人のように存在し始めるような。
レイナは、最初に佐島恭平が、実際に街を歩く日を決めた。
7月26日。
幽霊の日。
かつて、東京の町に幽霊がいた日だという。きっかけは何でも良い。嘘の記事だって自分が信じて動けばいい。真実がそこから始まる。
スーツケースに佐島の荷物の全てを入れて、受付もない貸し会議室を選んでその駅、赤坂見附という駅に向かった。ビルの3階でQRコードで入ることができた。隠しカメラは設定されてない。
全裸になって、男ものの下着からデオドラントから、付けていく。見えない部分こそ、心を研ぎ澄ます。きつく髪をまとめ上げた上に、ウィッグを重ねる。化粧ではなく、素顔にうっすらと髭を重ねる。特殊メイクを調べて、女性とは違う化粧を施して、男性の素肌に近い色彩を用意する。レイナはもともと筋肉の多い方だけど、肩には襦袢をつける。胸にはサラシを巻いて男の胸板にする。そうやって白いシャツを左右逆のボタンを確かめながらつなげていく。左右逆だということに驚かないくらい、気持ちが、男性のそれになってるのを感じていく時、爽やかな始まりの感動があった。朝の始まりとか春みたいな季節の持つ、純粋な感動。自分が産まれてきた気持ちをもう一度思い出すような。いままでの人生を全部消しゴムで消して、初めて真っ白なa3の紙に、思い通りに描き始めるような、そういう貴重な気持ちだった。