二百七 令和島へ (銭谷慎太郎) _
「霞ヶ関か新橋のあたりで合流させていただけないでしょうか。すいません。どうしてもお願いします。」
もう一度千代田線に乗ったわたしに幾度も電話を着信させた石原は電話に出るや否やそう言った。その声は冷静な彼女とは思えない熱と興奮を帯びていた。いや少し叫んでいたかもしれない。
「今日、それも今すぐではないとダメなのか。」
「はい。」
「……。」
「もし先ほどの仮説が確かならば、今夜東京湾で殺人があります。」
「それを金石が?」
「わかりません。しかし本郷文庫というメールの伝言とその延長で、の仮説です。」
「仮説?」
「こんや、令和島で殺しがあると。令和島というのは東京庵の沖合の埋立地です。」
石原が霞ヶ関本庁から車を出すと突然言うので、わたしは綾瀬に向かう千代田線を無理やり降り、都心部に戻った。日比谷まで戻り、地上に出てその車に乗った。かなりの速度で晴海通りから第一京浜を南へと走り出す。
石原が突然言い出した「令和島」は、交通機関がまだ届いていない東京湾の沖にあるらしい。恥ずかしながら、少し前、紙の地図帳で調べた東京湾にはそんな島がなかった。こういう時のためにわたしは刑事の私費で最新の市販の地図を持つようにしている。だが東京湾をいくら沖合まで見つめても、その地図に令和島と呼ばれるものはなかった。
「私も実は最初は驚きました。日本全国の島という島を検索したんですが。」
「検索、か。」
「はい。結論から言うと、令和島はまだ島ができている途中なのです。道路も海岸線もほとんどの地図には反映されていない。」
「場所はわかるのか。」
「Google Mapには海面最終処分場という記載の部分があります。その処分場が令和島という名前なのです。要するに島がまだこれから完成する場所、まだ土地としての帰属がどこにも認められていない場所と言う意味だと思います。住所も設定されていない。」
「GoogleのMapか。」
「はい。幾つか地図アプリを見たのですが、Google以外は、記載がまだです。」
わたしは会話をしながら自分の手持ちの地図を鞄の奥に入れた。この国の最新情報を海外の企業が持っているのも残念だったが、わたしが最後まで愛用した日本の地図を作ってきた人間のことも悲しく思った。彼らは死んだのか、もしくは死に近い恥辱の中にいるのだろう。
「お台場の先になると思います。とりあえずレインボーブリッジを渡りますね」
「令和島、か」
「ゴールデンゲートブリッジ、という橋が台場よりさらに先の沖合にできていて、その更に沖合の区画みたいです。まだ誰も住んでいない、住所も所属区かもわからない。海面最終処分場とだけ書いてあります。」
石原はそう吐息を漏らすように言った。ずいぶん強引にその場所を目指している。クルマが速度に乗れたところで、わたしはようやく質問を始めた。
「本郷文庫であったことを質問しても良いだろうか?」
「はい。もちろんです。A署の方もあるのに、すいません。」
石原はハンドルを握る指に力を入れ直すようにしてから
「金石元警部補なのか、他のだれなのかわかりません。ただ誰かが意図的にその言葉を並べ、銭谷警部補に伝えようとしたのだと思います。」
「……。」
「もともと頂いていたメールの頭文字を並べると、ほん・ご・う・ぶん・こ、つまり本郷文庫になる。そしてご連絡いただいたその後のメールも、に・だん・め になる。」
石原は文字を覚えきっていて、ゆっくりと言った。
「つまり、本郷文庫の二段目、という意味になる。」
「偶然だったりはしないのか。」
わたしは思っていたことをまず言った。
「おっしゃる通り、実際に並んだ言葉を見て、最初は偶然かもしれないと思いました。それが本当に意味を持つ言葉なのか?意識のしすぎではないか?とも、考えました。でも人工知能を含めていくつかの研究も調べてみました。ランダムに並べた文字列が意味をなす可能性は、かなり稀です。基本1パーセントもないかもしれないです。」
人工知能という言葉にわたしはまた、呼吸を乱したが、我慢して質問を続けた。
「1パーセントもない?」
「ほぼゼロに近いと思います。」
わたしは堪らず反論した。
「そうだろうか。たとえば、「あ」という文字の後に、あいうえおの順にしても、愛(あい)、会う(あう)、会え(あえ)、青(あお)、と言うふうに、どれも意味をなすように感じるが。」
「はい。ただこれは、あいうえおだけが、特殊なのだと思います。たとえば、逆さまに読めば、いあ、も、うあ、も、えあ、も、おあも、日本語で明確に意味があるかと言われると難しいです。ただ、二文字は偶然も多いです。三文字、四文字と並べてみると相当難しい、意味を持つ確率がかなり低いことだとわかります。」
「……。」
「全く文面にならない事ばかりになります。ためしに新聞や小説の文字列を縦横変えて読むとわかります。文字が乱数的に並ぶときに文脈になる確率はほぼゼロです。人間が文字を並べて話せばほとんど意味を持つというのに、文字列の方で並んで意味を持つのは、奇跡だということを人間は知らないんです。」
石原は、芝浦の倉庫街に入るとアクセルを強めに踏んだ。お台場へ渡るレインボーブリッジが視界に見えてくる。
「今回は二文字や三文字ではない。「ほん・ご・う・ぶん・こ・に・だん・め」まで意味が発生している。本郷文庫、までは私も偶然をある程度は意識しました。しかし二段目まできて確信が高まりました。」
「なるほど。」
「……。」
「ではもう一つ、よいか?」
「勿論です。」
「その類推のなかで、突然それが今夜になった理由はどうなる?まさに今、焦りながら、その海面処分場の沖合の島に向けて急ぐ理由を知りたい。」
わたしはようやくその理由を聞いた。何故、今夜なのか?何故、東京湾沖合のまだ海面を半分残すような埋立地なのか。質問をしながら槇村又兵衛刑事の
「罪を全て川から海へと流すのは人間の業です」
という言葉が突如脳裏に再来した。今日、わたしにはもう一つ重大な事が起きてしまっている。そこにも明確に人間の命が関わっている。だから石原が<なぜ今夜なのか>は大事な会話になる。
「説明します。」
レインボーブリッジまでもう少しと言うところで車は信号で止まった。石原は、彼女の板電話(スマホ)を差し出した。
「先ほどメッセージに写真を二枚お送りしました。」
「ああ。写真は見た。」
「この二枚の写真で気がつきました。もちろん金石元警部補と思われるメールがメールの本文の頭文字を恣意的に並べたという仮説がきっかけです。」
わたしは板電話(スマホ)で言われたままに写真を見た。二枚とも本が並ぶ駅の改札の壁面の書架の写真である。わたしは幾度となく見つめながら
「これが本郷文庫の写真だというのは、理解しているつもりだ。」
と言うのが精一杯だった。
「そうです。本郷三丁目の駅の改札の外にある、一見学生向けの無人古本貸出しです。」
「……。」
「申し上げます。本郷文庫二段目という言葉が、もし何らかのコマンドだとすると、いくつかのことが収斂するのです。つまり、金石元警部補のメールはメールの内容ではなく、むしろ内容に関係のない冒頭の文字がキーだった。」
わたしは無言で...