二百一 私用電話 (銭谷慎太郎)
「リスクのある中、最も記録の残りやすいメールをぼんやり送付するはずはないと思います。」
石原は電話口でわたしにそう言った。その通りだ。言われてみればなんの反論もない。むしろわたしは金石のことでは感傷的になりすぎ、客観行為が出来ないのだろう。石原の言う通り、あの金石がリスクを気にせずにぼんやりと幾度も感傷語句を送るはずはないのだ。何かあるはずだ、と思ってメールに向き合ってくるべきだった。
金石を捜査の相方として失ったことに執着しすぎていた。散々早乙女を馬鹿にしながら、独断に執着したのは自分であった。わたしは握り拳で、頬と顎を幾度か殴って、改めてメールを見つめ直した。迷惑メールは今回だけではない。もう五年も前からきているのである。保存さえして来なかった自分が恨めしかった。手書きで残すこともできたのである。殴った自分の顎が想定より痛んだ。頭が少し脳震盪を起こしているそのときに私用の方の電話が鳴った。
「石原か?」
「すまん、違う。その名前は私ではない。」
その声は女性警官ではなく、同期の警察官だった。
「是永か。すまん。別の電話を先ほど切ったところで、勘違いをした。」
「忙しそうだな。」
「申し訳ない。今、A署からか?」
わたしは心からの感謝を言葉に込めたが、声は普段の声とさほど変わり映えしなかった。
「A署の外だよ。まさか中からは電話ができない。」
「すまんな。」
「気にするな。俺も気になってるんだ。で、病院はわからんのだが、襲撃現場は目星がついた。」
「どうやって?」
「上層部は、交番勤務の若手に緘口令を敷いたのだが、そこから漏れ聞きさせた。交番ってのはご存じ交代制だからな。」
「なるほど。」
「もうアスファルトの血痕は、洗い流してるらしいが、又兵衛は柴又の帝釈天近くの河川敷を降りる階段で見つかった。早朝だ。夜の河川敷でやられ、朝方まで放置されていたのだと思う。」
是永は又兵衛の今朝の状況をいの一番に伝えてくれた。そうして続報までを得てこうやって同期を心配して連絡をくれている。
「河川敷でやられた?何故そんなところに?」
「わからん。誰かと会おうとしたのかもしれん。」
「殺し切らずに、生かしたつもりか。」
「どうだろうか。重体は確からしい。この後死ぬかもしれない。」
「暴力団の仕事か?」
わたしは、思わず犯行は反社会の人間だという言い方をした。
「まさか。銭谷は何か知ってるのか?ヤクザなのか。」
「又兵衛刑事は、K組といろいろあったはずだ。」
「例の捜査の件か。最近はあの人は、横領の話でしか話題がなかったが。まあ冷静に考えればそういう線もあるのか。」
「……。」
「拳銃の摘発の伝説を思い出したよ。昔マル暴だった頃だ。だいぶ内部に入り込んでいたはずだ。担当も離れて随分経つというのにな。なんで今さら。」
わたしは是永に、又兵衛が独自に追っていたK組の作業のことを言わなかった。今回の私刑の周りの一過性のものではなく、彼の刑事人生に近いものがそこに賭かっていたことも、その事務所を何らかの理由で直接脅すために昨日一日かけてこのわたしと歩いたことも、言葉にしなかった。わたしは、あの覚悟をしたような又兵衛刑事の横顔を思い出していた。
「川で、つまり河川敷でやられたのか。」
「そうだろうな。帝釈天の裏から上がったとこだ。」
「それで、なぜ自殺になるのか。いや、自殺という結論を所轄は選ぶ?」
「わからん。交番の人間は、病院に届けたと同時に、身分照会で意識のない又兵衛さんを触ったところ、警察手帳を見つけて驚いたらしい。若手で、彼のことを知りもしなかった、と言うのは残念だがな。もう少しベテランであれば違う上げかたもあったかもしれない。」
ふと是永の言い方には、刑事人生の後半の寂しさのようなものに触れる響きがあった。
「それで、何も知らない若手が署の上に上げて、いろいろな指示が始まった。」
「わからんが、又兵衛刑事の周辺に何かがあるのならば、上層部は慎重な手順をとるだろうな」
「ヤクザと警察の上層部が直接ではないまでも、利害一致をしていたりしたら、大変なことだからな。」
「銭谷。いまどき、警察の上層部が反社会の人間と絡むのか?」
わたしはその声を聞こえないふりをしたまま、
「帝釈天、であれば、病院は限られそうだ。片っ端から当たってみた方が早いかもな」
と言った。今から動けばまだ間に合うかもしれない。ところが、
「銭谷、ちょっと待て。」
「どうした。」
「やめておいた方がいいぞ。」
と、是永は突如強く言葉を吐いた。
「なぜだ。このままじゃ、重体と言って殺されるのを待つようなものだろう」
「そうだ。だが本当に殺したいなら既に殺されてるはずともいえる。もっと他のやり方があるはずだ。」
「しかし。」
わたしは反論を試みた。是永のいうことも一理あるが、わたしは当事者として責任を感じていた。その沈黙に、是永は息巻いた。
「銭谷。いいか、いま、お前はどこにいるんだ?」
「日比谷だ。」
「場所じゃない。警察の中での地位だよ。お前がいるのは警視庁の六階だろう?」
「……。」
「警察官で生きていれば不自然なことなど腐るほどあるんだ。その六階だって多かれ少なかれそういうがあるはずだ。せっかくそういう場所にいるお前がこんなところに関わっていれば、上層部にマイナスをつけられるリスクが増えるだけだろう。」
「しかし。」
「いいか。エースで捜査一課っていう仕事場は大切にした方がいい。場所を失えば、刑事人生でやれることは限られる。」
「……。」
「俺を見ればわかるだろう。刑事の仕事をしたくてもできない部署など<ごまん>とあるんだ。銭谷。これ以上言わせるな。」
是永の電話を終えた後、わたしは呆然と皇居の周辺を歩いていた。
嫌な汗というのは、このことを言うのだろう。
老刑事の槇村又兵衛が突然死に瀕している。
その事実に打たれたまま、わたしは警視庁のビルに入る気にもなれず、かと言ってどこにいくこともできず、立ち止まることもできないまま、呆然と歩いていた。
火をつけることもできないタバコを改めて空虚に口に当てた時、浅草で酒を酌み交わした時の又兵衛の言葉をなぜか思い出した。
…罪は川を上流から下流へと、水と共に流れていくのです。そうしてやがて海へと降るのです。人間が見たくないもの、ゴミは海へと、大勢の人間の罪を集めて流れていく。いくら浄水場を使っても汚水やゴミが本当に飲み水になると思いますか?見たくないものは人から毛嫌いされながら目に付かない場所へと薄められていくだけなんです…。
何度も語ってきた言葉なのかもしれない。又兵衛刑事が河川敷でやられた、という是永の言葉がその場面に重なるように追ってきた。帝釈天と金町は歩いて十数分の距離である。わたしは自宅近い金町周辺の病院について、いくつか想像ができた。いま、そのどれかに又兵衛はいるはずだ。A署が重要参考人などと言い訳をつけて、面会を謝絶させてるくらいなら警視庁だと言えば突破もできる。もちろん後先のことを考えれば謹慎中の身でそれをするのは非常に良くないのだがーー。
昨夜の槇村又兵衛刑事の仕事にはある達成へ向けた流れが確かにあった。わたしには詳細の説明は無かったが、明らか...