百八九 朝の地下鉄 (銭谷警部補)
カプセルホテルに冷たい音(トーン)が響いていた。それが現実だと気がつくまで、かなりの時間がかかった。前向きと後ろ向きの精神が、半々くらい。アルコールはまだ気分良くわたしを浸している。目が覚めてしまったのは確かだった。さっきまでバーにいたままの格好で、わたしは目を覚ました。本当は眠ったままの方が良かったと思いながら、わたしはカプセルホテルを出た。汗がひどかった。
六本木駅へは西麻布赤のれんの前の坂を上がるだけだ。寝たままの身なりで起きて、何も考えずに歩く。
念のため石原がいるかもしれない喫茶店の前は通らず、駅にじかに向かった。朝の六時半過ぎに太刀川が地下鉄に降りる入口は知っている。視界を確かめながら、六本木通りを渡ったみずほ銀行の角でタバコに火をつけた。わたしが目的とする人間が通ったところで、ゆっくり駅に降りるつもりだった。
ジャックダニエルの残る喉にタバコを当てる。眠気の中、太刀川ではなく別の人間を探している自分が分かる。それゆえか、六本木ヒルズの方から、太刀川が姿を現したのを遠目に見ても何も興奮はなかった。むしろその周辺を凝視した。歩いていればわかるはずだ。あいつの身長だけは、誰にも隠せたものではない。
太刀川は端然と日比谷線の入り口へと降りていった。わたしは合わせて六本木通りを挟んで反対側の入り口を降りた。階下で太刀川は自動改札に吸い込まれるところだった。わたしは目立たぬように周りを見回した。しかし、二メートルの男は視界にはなかった。朝六時の地下鉄の入り口は閑散としていて、人はまばらだった。
もはやわたしは太刀川に存在を確認されても構わないと思っていた。日比谷線が滑り込んできたので太刀川の方角に近づきながら、隣の車両にちょうど乗った。まだ朝も早く、乗降客はまばらだった。ふと、昨夜尾行参加を宣言していた石原がいない気がしたが、変装して尾行しているのだと思い、探すことは辞めた。
列車が走り、次の神谷町に向かうところでわたしは太刀川のいる車両へと歩いた。車両の連結部の扉を開ける時に少し目立つ音がした。わたしを視界に入れた太刀川は、さほど驚かずに「またか。」という顔をした。
「嘘の隠居はもうやめにしたらいいぞ。」
その朝、わたしの声は滑らかで自然だった。まだ余韻を残す酒の力を借りられたようだった。
「嘘と言うのはどう言う意味ですか?」
「ああ。連絡先を捨てたとか、ネットから身を引いたとか、などいう虚言で、引退を演出してる、と言うことだよ。」
「ほう。これは、随分新しいものの見方ですね。古いとも言うけど。」
太刀川は、わたしを見てもまったく驚きもないようだった。もしかすると、こちらの手の内をすべて知っているのか、とさえ思った。
「銭谷警部補。あなたも面白い人ですね。どうですか?最近の警視庁の方針には合わなそうですが。」
「どういう意味だ。」
「言葉通りの、個人的な意見です。まあいい。繰り返しますが、我々、国民としては、税金の費用対効果もあり、他の捜査を優先することをお願いしたいですね。世の中にはたくさん、人々の目に見えもしない犯罪がありますよ。もっとも、あなたは、単に、担当を外された過去の犯罪が許せないから、私を追っているのかも知れないですが。」
「珍しい。罪を自分で認めたようなものだな。過去の犯罪か。」
「違いますよ。あなたの物の考えの、論理構造を指摘申し上げているのです。組織の、隠蔽された悪。そういうものを、あなたは暴きたい。ホームランを打ちたい。ずいぶん古いバットで。そういうことでしょう。」
「隠蔽された犯罪に関わったかのような言葉選びだ。それを指摘しているのだが、伝わらないか?」
「伝わっています。その上で、問題はあなたの性格だと言ってるんですよ。あなたは組織のつまらない問題を気にしてしまう。理想が高いのでしょう。」
「組織だろうがなんだろうが、悪いものは逮捕するまでだ。」
「まあ貴方の性格なのでしょうね。こうやって、組織が解決済みにした過去を、いまだに上司にも内緒で捜査している。五年も経ち、部下もついてこない季節になってもね。誰が見ても明確なことを、私は真っ直ぐに言ってるだけですよ。あなたは、大丈夫ですかと。」
「なんとでもいえばいい。」
「で、今日は何の用ですか?」
太刀川はそこだけ、しっかりと聞くぞと言う目で、わたしを見上げた。
「ただの偶然さ。」
わたしはそう言って睨んだ。睨みながら、わたしの両眼は何ひとつ太刀川のことを見ていなかった。黒目の見つめる外側で、身の丈二メートルの人間がこの空間にやってくることだけを待っていた。
「そんな訳無いでしょう。あなたの住居は霞が関より東側です。この路線にこの時間に乗るのは無理がある。別宅でもあれば別です。」
「おれの住所をなぜわかる?」
「しつこいからですよ。」
「まあ、インターネットに載ってはいないがな。大金を持ってるといろいろ、やれることがあるようだな?どう言う人間を雇っている?」
「繰り返しですが引退していますから。」
「売却した現金は家に置いているのか?」
「……。」
電車は次の神谷町に止まった。誰も乗ってこなかった。やはり今日は金石らしき人影はこの車両にはなかった。
私は金石のことを聞かなかった。万が一、金石とこの男(太刀川)がつながっていてもいなくても、重大な迷惑を金石本人にかける恐れがあるからだ。
想像をしたくはないが、例えば整形手術などをして顔を変えて、どこかへの潜入を試みているかもしれない。もし顔を変えたなら、それは奴も命がけだ、と言うことでもある。わたしは話題を変えた。
「では、要望に答えて、質問をするとしよう。槇村又兵衛という刑事を訪ねたことがあるようだな。」
「……。」
太刀川は一瞬聞こえない様子をした。
「とぼけるのは構わない。一方的に言っておこう。何か、槇村又兵衛という刑事に聞きたい情報があったのではないのか?」
「はて。誰のことでしょう。」
太刀川の表情は夜の湖のように暗く冷たかった。
「A署の刑事さんだよ。わたしより、ひと回りは齢をとっている。あんたが尋ねたはずだがな。」
「日々、いろいろな人間と話していますのでね。なかなかお顔とお名前を一致させるのは難しいのです。」
「そうだろうか?記憶力は随分良いと聞いているが。」
わたしは太刀川の顔面を凝視した。何を考えて何を目指しているのか。分かりずらい顔だ。
「すっとぼけてるようだな。」
「どうでしょうかね。」
「まあいい。こちらにも考えはある。」
わたしは、さほど自信のない自分を悟られないように、ゆっくりと間合いをとった。
「六本木の事件の話をしてもいいか。」
「あれは、事件ではなく、事故ですよね。」
「我々は、事件と呼んでいるんでね。あの事件で、あなたはとある組織に関わった」
「ほう。心当たりはありませんね。」
「とぼけるのは構わない。ただ、ある組織が動いた。そのせいで、なぜかいくつか不思議な変化があった。それは認めてもいいだろう。」
「変化の意味がわからないです。」
「あまりに事実を認めないと、そこに急所があるのが逆に露わになるがな。まあいい。誰がどう動いたかは知らない。しかし、事実として、あの8月、夏の終わりから警察の方針...