百八六 出池尻再(軽井澤新太)
池尻病院の医師は、慣れた様子で薬物の処理を行い、女性の痙攣は止まりました。一旦安定すると看護婦がつくわけでもなく、勝手に帰っていいという空気になりました。先日は右腕を切断した人間が来てもあの程度だった病院ですから無理もないかもしれません。
わたくしの目の前で、赤髪の女性の電話が鳴ったのはそうやって守谷のいた病室で彼女が少し落ち着き、悪魔がこぼれ落ちたような痙攣の表情を忘れたかのように美しく眠る横顔で静かな寝息をさせていた時でした。
鳴り響くというより、静かに揺れるその電話の音に、赤い髪の女性は目を覚ました様子でわたくしと目が合いました。
「……ここは?」
「病院です。わたくしの車で意識を失ったのを覚えていますか。薬物中毒の発作だったと思います。舌を噛んで切れています。話す時に気をつけてください。」
「すいません。」
それまで、言葉を出すことも渋っていた女性は、昏倒をきっかけに心を開いた様子もありました。電話は一旦鳴り止みましたが、すぐにまた鳴り直したので、わたくしは女性にその電話を手渡しました。その画面を見て表情がはっきりと変調したのをわたくしは察しました。女性は電話に出ました。
「すいません。」
電話を取った女性は、思いの外明確に答えました。背筋を伸ばし、まるで上司の電話に対応するような空気がそこにありました。舌を切っているというのに、その痛みを忘れて話しているようでした。
「ーーー」
「はい。」
「ーーー」
「はい。」
電話は明らかに、なんらかの指示系統からの連絡でした。おそらく、その指示によって彼女はさまざまな仕事をしているのだと感じました。体調が悪いにもかかわらず、仕事の受注者特有の背筋を伸ばした態度がありました。そうしてひと通り確認が済んだところで電話を切ったようでした。
「この病院は、どこでしょう?」
「池尻大橋ですね。青山から電車で二駅。渋谷の次です。」
「はやく、動いたほうがいいと思います。」
「どういうことでしょうか。」
「ご存知かと思いますが、車にGPSがついています。」
赤い髪の女性はその言葉とともにわたくしを見つめました。美しい赤い唇と髪が白いベッドの上に紅白の対峙をさせていました。
「あなたがそうおっしゃって良いのですか。」
「…とにかく、急ぎましょう。」
「でも体調は。」
「お気遣いすいません。楽になっています。話はその後がいいです。」
わたくしは、協力をしてくれるのか?という質問をしようと思いましたが、女性の方に何らかの配慮があり、まずは従うべきだという直感が働きました。さっそく席を立ち、個室から出ようとドアを開けました。
「会計は?」
「大丈夫です。おそらくこの病院は。」
赤い髪の女性は、不思議な顔をしましたが、わたくしに従ってすぐに自分の脚で立ち上がり、歩き出しました。
「車は駐車場に止めてあります。」
むしろ女性に急かされるように病院のリノリウムの床を滑るように進んで、一階から出ました。すでに深夜で、外には誰一人といません。車寄せの奥に社用車(キャロル)をみつけると、女性は大胆に車の下に潜り込みました。そして予想よりも小さなその器材を裏面から剥がしてわたくしに見せるや否や、
「あなたが取ったことにしてください」
と言って、GPSの発信器を草むらに投げ捨てました。
「壊してはダメです。その瞬間に、再追跡を始める議論になって電話が掛かってきます。電源を入れたままなら、同じ場所にいるのだと誤認してくれる。先程の電話では少なくとも、この病院で休んでいると認識しています。」
「なるほど。」
わたくしはそう言って、ふと、女性の手を縛っていないことに気がつきました。逃げようと思えばいつでも逃げれるはずの女性は、その様子もなく、キャロルのドアの前で
「ありがとうございました。病院まで手配していただいて。すこし、ご協力できることだけ、させてください。」
とだけ言いました。
我々は、一旦尾行のGPSが取れた車(キャロル)に乗り、病院を離れ始めました。元いた青山、つまり渋谷の方の玉川通りに戻りながら車の中での会話を始めました。
「繰り返しですが、病院をお世話していただき、ありがとうございました。」
赤い髪の女性は丁重にそう言いました。美しいだけでなく声に温もりのある人で、何かの邂逅をわたくしは感じました。そのまま自然な流れで質問の続きをしました。
「痙攣する前に聞いていたことと同じで恐縮ですが。お聞きした内容は覚えていますか?」
「…はい。」
「そうですか。」
「私からも、お伝えすることがあると思います。」
「お伝えすること?」
「はい。まずその、GPSの画面を見ていただけませんか?」
「画面?」
「はい。ご想像の通り、私は自分に指示をしている人間のことを、目的も含め何も知りません。ただ、この画面の中にいくつかの手がかりがあるのかもしれないと。おそらく関係する人間が動いています。」
「関係する人間?」
「私が尾行していた人間は風間といいます。」
「風間ですか?」
「はい。その人間と同じようにもう一人、このGPSの中に入っているのが守谷という人間です。」
「守谷?なぜ?」
「二人の動きを追跡することが私の仕事だったからです。」
「つまり、その、貴方は風間や守谷を尾行してきていて、この緑の輝点が貴方とわたくしで、この青が守谷ということですか。風間は?」
「風間は以前、オレンジ色で存在しましたが、消えてしまいました。もしかすると自分で気がついて機械を破壊してしまったのかもしれません。」
「見当たらなくなった。」
「はい。」
わたくしを尾行し、そして同じように風間や守谷をこの女性は追跡をしていた、という。それでいて何も知らない。その尾行の理由も何も知らずに、このわたくしに逆に拿捕されている。わたくしは少し女性の危険を感じた。
「あなたは、風間と守谷を知っているのですね。」
「…はい。」
「なぜ、ご存じなのですか?」
「ご想像の通り、特に理由はないのです。」
「葉書のことはご存知ですか」
「葉書?どういう意味ですか?」
「…なるほど。」
「すいません。知らないことは多々あるとは思います。私はただ彼らの名前と光の点として追跡をし、指示があればその作業を行っていたに過ぎません。」
急ぎ、画面を見ると、赤い髪の女性が指し示した青い光点が東京の地図を正に今、動いているのがわかりました。確か最初に見た時は錦糸町のあたりに動かずにあったと記憶しています。それが、東京の赤羽を超えて北上しているのがわかります。すでに埼玉に入っていくようでした。国道沿いを動いていて、あきらかに車で移動しているのがわかります。
「あなたはわたくしを尾行していたがその目的や指示者が誰かもわからない。わたくしは風間や守谷がどうして追われているのか?誰が追いかけているのかを突き止めねばならないのです。」
わたくしがそう言っても赤い髪の女性の言葉をまとめる限り彼女が何かを知っているとも思えません。組織の末端で何も知らずに作業だけさせられている、そういう存在なのだと思われました。
わたくしは途方に暮れたような表情でしばらく黙っていました。すると赤い髪の女性が突然
「風間のGPSが消えている今...