← 目次へ
星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
第181章をXでシェア
第 181 章 百七八 バー電話(銭谷警部補)

百七八 バー電話(銭谷警部補)

 わたしは又兵衛の一連の言葉を反芻しながら、ジャックダニエルを静かに揺らし続けていた。丸氷がずいぶんと小さくなりロックグラスが濃い水割りくらいになっている。
 相変わらずバーには他の客はいなかった。
 又兵衛はわたしに、エスという組織については金石と幾度か話したことを言っていた。
 朧げな記憶を辿りながらこのバーに来て、わたしは視界が広がるのを感じる。又兵衛には言わなかったが、このカウンターで、金石はわたしにその、エスという言葉を話していた気がする。酩酊し、酒に溺れた帰り際のバーのカウンターで、奴が語った多くの言葉に、そういう文脈があった。
 私用のほうの電話が鳴った。石原だった。
「資料映像、クラウドで、もう上がると思います。」
「ええと。すまん。クラウド。」
「はい。銭谷警部補が新しく買われたのはアンドロイドではなくてiPhoneですよね。」
 知らない言葉が溢れる時代だと思う。知っているやつの方が幸福だとは思わないが、酒のせいでわたしは素直に聞いた。
「すまんが教えてくれ。クラウドというのが全くわからん。アンドロというのはもっとわからない。」
「今、話している電話の画面を見れますか?」
 石原は、ゆっくり、わかりやすい形で説明をしてくれた。やさしさが佇む声だった。草原をゆっくりと歩くのと、のどかな夕日を見るのとが混ざったような気持ちで、私は珍しくこの板電話(スマホ)を前向きに捉えることができた。
「…はい。そうです。その右下にボタンがあると思います。」
「この歯車か。」
「はい。その歯車のボタンを押してみてください。」
「うむ。ファイルが並んでる様子の画面になった。」
「いいですね。そこでこの後、映像が見れるようになると思います。」
「よしわかった。」
 わたしは若者らしい知らないものを学ぶ子供のような声を出した。
「アップロードに時間がかかっています。もし良ければ、その間に銭谷さん、一ついいですか。少しご報告したいことがありまして。」
「報告はいつでもありがたい。」
 ふと、ニコルソンが他の客がいないので、音楽の音量を下げてくれた気がした。
 石原は、自分の仮説をそこで話した。
 理路整然としていた。わたしは石原の説明をまとめるように、
「つまり、太刀川が地下鉄を使って何かの連絡、指示している。もしくは、彼の持っている金を何らかの形で使っている、ということか。」
 と言った。少しの間合いの後に石原は、
「ええ。そうとしか思えないのです。もちろん配るのはあの場所ではないかもしれないですが、なんらかの符丁があったりするのではないかと。つまり、あの地下鉄の車両で、直接の会話はしないけれどもなんらかの連絡場所になっているように思うのです。」
 わたしも、過去幾度かその可能性を考えたことはあった。たとえば命令の合議だけ確認し、別途現金を封筒に入れて郵送する。もしくは配るだけで何も知らない作業者がいれば事足りる。
「根拠はあるのか。」
「根拠と言うほどではないですが、その可能性として、映像を見ていただきたいんです。」
「わかった。」
「経済には詳しくないですが、太刀川は利子だけで毎年収入が何億もあるという話でした。」
「利子で言えば、複利を考えずともそうだな。年間六億円はくだらないだろうな。」
「だとすると、毎日二百万ドブに捨てなければならない。」
「どぶ?」
「ええ。仮に年間六億円使うには、毎日百八十六万円を捨てる処理をしないといけないんです。使いきれないんです。今の太刀川を見てる限り、そういう生活をしているようには見えないです。夜の銀座や六本木に通い詰めてもいない。」
 地下鉄に乗って、街を散歩しているだけではその通りになるだろう。本来はタクシーどころか、運転手付きのリムジンに乗るべき金額だ。
「調べてわかったのですが、太刀川はインターネットアカウントだけでなく、携帯電話どころかクレジットカードも持っていません。いつでも支払いは現金のようです。クレジットカードで払ったりすればいつ誰に金が動いたかは足がつく。」
「……。」
「つまり、警察からすれば、何も情報を盗めない。逆の視点から見れば、少なくともそういう空間を太刀川は作っている。」
「うむ。」
「メールやメッセージアプリを一切、辞めた太刀川です。一見世捨て人のように世間から遠ざかったようにしている。でも、そこにこそ、盲点があるのかもしれません。本当はその逆なのだと。」
 それはわたしがずっと直感してきていることだが、自分で言葉にしてはこなかった。
「つまり、あの地下鉄を連絡場所にして、現金(げんなま)を使って何かの組織を運営しているのかもしれない。」
「組織の運営を?」
「はい。毎年数億円です。かなりの人間をやはり雇えます。」
「……。」
「銭谷警部補。五年前に何があったかわかりません。金石氏の隠密領域もあったと思います。しかし、太刀川が警察組織や権力に何らかの形で嫌な思い出があるのだとすると、ーー今までとは別の組織運営方法を太刀川が構築することはありえませんか。」
「……。」
「オフラインは逃避ではなく、ある種の力になります。」
 わたしは素直に返事ができなかった。又兵衛が先刻、わたしに伝えた内容と、今の石原の言葉が近づいている。金石の言葉を思い出すために飲みすぎているウィスキーが脳を揺らしている。しかし、頭痛ではなく興奮剤のような感覚でもある。
「現金で、太刀川が今までと違う人間を動かしている。」
「普通の会社を経営するなら、普通に支払えば良い。とすれば、普通ではないことをやってるのかもしれません。」
「普通ではない?」
「私には、そう思えてならない。毎朝六時半。もう何年もですよね。銭谷警部補が尾行をしていた頃からです。五年以上です。」
「……。」
「五年前に会社の株式を失ってから多くの部下を失った。太刀川にしてみれば、次の動き方はいろいろな人間に対する不信があった。」
「奴がいろいろなものが信じられなくなった可能性はあるかもしれない。」
「もう少しわたしの方でも調べたいと思っています。ぜひ銭谷警部補には映像の方をご覧になっていただければと思います。」
「論理はわかった。まずは映像、だな。」
「はい。私ももちろん半信半疑の自分もいます。こうやって仮説を強めに自負する証拠になるかわかりませんが、明日以降もできる限り撮影を追加します。」
「ありがとう。まずは見てみてそれから折り返しでも良いか」
「ありがとうございます。もうすぐクラウドで見れるはずです。歯車のマークです。」

文字
明暗
組方向