百七二 河川敷の別れ(銭谷警部補)
「……。太刀川ですか。太刀川があなたに?」
わたしは、唖然として空を見た。いつのまにか、河川敷の暗闇に月が出ていた。
「ええ。あの世間を賑わせた太刀川龍一という男でした。彼がこの小生を調べてやってきたのです。」
「太刀川が自分で調べて、あなたに辿り着いたのですか?」
わたしは脳が追いつかないのを感じた。嫌な汗も出た。
「念のため申し上げますが、太刀川が小生に会いにきたのは、金石が警視庁を去ったあとです。時系列が大事です。あなたと金石は捜査本部で、太刀川を調べていた。太刀川の周辺を追いかけ、闇を暴こうとしていた。しかし、世の風向きが変わった。圧力がかかったと言っても良い。その結果、捜査本部は解散され、金石は失踪した。小生はあの事件をそう言うふうに見ています。」
又兵衛刑事はタバコを取り出していた。別れるはずだった我々は再び立ち話になった。
「当たっていますか?」
「時系列と言う意味では、その通りかもしれない。」
「であればまさに、その後です。金石がいなくなった後です。」
わたしは混乱を誤魔化すように頷きながら、又兵衛の言う言葉を噛み締めた。
「最初、小生はそれがA署の人間が、金で何かを太刀川に売ったのだと思っていたんです。」
「買収ですか。」
「まあ太刀川は金持ちですからね。あちこちに話を投げた一つ程度だろう、と思っていました。」
「太刀川が警察になんらかの情報源があると考えた。」
「どうですかね。あれこれ辿ったひとつかなと。」
「しかし、太刀川がなぜ。…太刀川の質問は、どんな内容でしたか。」
「それが、そうやって無理してたどり着いた割には、質問は曖昧なのです。小生がどんな刑事の担当かとか、どういう捜査を今しているのか、程度の質疑です。あとはあの経営者らしい眼差しで見つめてくるくらいです。逆に小生が何を聞いても、何も答えなかった。その点は徹底していた。」
「わざわざ、会ったこともない刑事に会いに来て、ですよね。」
「そうです。小生に会いに来た理由が全くわからない。だから本庁のあなたたち、つまり捜査本部の周辺の人間が、何か太刀川に話したのではないかと思っていました。たとえばそれで金石の教育担当だという理由で調べに来た、とかですかね。貴殿にあった最初、繰り返しですが小生は探りを入れたのはこのせいです。」
「わたしは太刀川とそんな話をしたことはない。」
「とすると、考えられるのは、やはり金石が太刀川に連絡をとったということになるかもしれない。」
「あの二人が?」
「まだわからない。現時点では小生はそう結論だ。この件については。」
「金石が今いる場所と、太刀川が近いと言うこと?」
わたしはどこかで思っていたことを思わず口にした。地下鉄の映像にいた身長二メートルの男の背中を思い出した。
「わかりません。たとえば、金石が外部の諜報組織に転向し、その中で太刀川と何らかの連絡をとった。小生がライフワークでエスのことをいろいろ調べてきているのを探ろうとしたと考えるのは考えすぎですかね。でもそういうことでなければ、A署の小生にまで探りに来ないはずです。」
「……。」
「実は、敢えて言えば、質問は曖昧なのですが、趣味を聞いてきたり、警察以外の活動だとか、なにか少しエスの周りの話を引き出そうとしていた様子もあったのです。いや、これは小生の意識過剰かもしれないので、あまり自信のないところですが。」
「初対面で、いきなり陰謀論の会話も難しいでしょうしね。」
わたしが陰謀論、という言い方をしたところは又兵衛は拾わず、
「いずれにせよ、五年前、あの事件の風向きが変わり、金石がさった後、なぜか太刀川龍一は東京の外れの警察署まで、こんな老刑事を訪ねたのです。相当なリスクを冒していますよ。陰謀論と誰しもが馬鹿にするような情報を、よく知りもしない刑事に聞きに来るというのですから。そこに、なにかありますよって告白しているようなものでしょう。」
気の動転を隠せなかった。
わたしの考えでは、太刀川についてはーー「そういう組織」の内部の方に関係しているとばかり思ってきた。もちろんエスとかいう組織が本当に存在するのであれば、という意味でだ。あの風向きの変化も奴が逮捕されずに済んだのも、例えばそういう権力的な眼に見えない力の恩恵だと思っていた。呼称はエスでも何でもいいが、太刀川龍一はそういう権力に莫大な現金を使って現場の刑事たちを吹き飛ばしたのだとばかり思ってきた。
その太刀川が間抜けにも、事件のほとぼりが冷めた後に所轄に問い合わせに来るなどと言うことがあるのだろうか。それも又兵衛という確かに諜報組織の捜査を何十年と試みてきた老刑事にピンポイントにである。
「諜報組織について教えてくれとは聞かなかったでしょう?」
「どうですかね。恥ずかしながら、会話を細かくは記録しなかったもので。ただ、警察の表向きの仕事以外に色々やってますか、みたいな質問はしていました。その質問を、そう捉えることは出来なくはないでしょう。エスについて知っていることがあるなら少しでもいいから、聞かせろという意味に。」
「しかし、そんな質問をするようでは、太刀川龍一は、六本木事件の首謀者でもなんでもない、ということになる。つまり自分が助かった理由さえ分かっていないので、エスのような組織の存在をあちらこちらに聞き回ったみたいなことでしょう?」
「どうだろう。」
「でなければ、そんなボヤけた質問をしに、あんたに会いに来る理由がない。しかも事件がある意味で収まったあとだ。寝た子を起こすことにもなりかねない。メディアの熱で東京地検が動けば強引な逮捕さえ十分あった状況だったのだから。」
「そうですね。」
「そういう恐怖に再び太刀川が向かうと思えない。」
そうだ。太刀川がその時点で老刑事に会うことはリスクでしかない。そもそも闇の中、権力の中心で作業をしていたならば、そんな質問をしに来る意味が全くおかしくなる。
「おかしいですよね。」
わたしは唐突に自分の考えを告白していた。しかし又兵衛はそんなに焦ってはいなかった。
「まあ、こればかりは小生はこの事件のことは部外者でしかないです。あなたの持っている情報もほとんど知らない。つまり、真実はわかりません。ただね、銭谷さん。昨日申し上げた通り、仮に太刀川が関わったのが本当の諜報組織(エス)だとしても組織図も何も存在しない。誰が構成員かもわからないのです。」
「……。」
「とすると、太刀川には二つの可能性で見るしかない。」
「ふたつ」
「ええ。これはくりかえしですが、小生の仕事でも何でもなく、五年前を思い出して口走ってるだけですから、無責任の意見をお許しください。」
「いえ、かまわない。」
「ひとつは、彼が陰謀の中心で、金を使ってこの諜報組織と関わったと言う場合です。このケースだとすると、あの部屋の出入りに、政治家がいた。芸能界の人間がいた。巨額の金が絡んでいた。過失があった。過失致死だったか殺人だったかわからないが、事故ではなく犯罪があった。だから、なんとかして、女子大生の死亡を単純な事件などにして処理せねばならなかった。そのときに、何らかの組織の力を使った。つまり太刀川が主導して、潮目を変えようとした。」
「……。」
「お...