百七十 河川敷へ (銭谷警部補)
わたしの私用の携帯電話番号を記録した三人目は槇村又兵衛という老刑事になった。電話ではなく、手帳を開いて手で番号を書いている。作ったばかりのメールアドレスと一緒に、番号の数字を並べ終わると又兵衛は顔を上げた。
「銭谷警部補。あなたのご指摘は了解致しました。説明もないまま、失礼しました。しかし小生の考えを大凡把握いただいていたことに大変感謝いたします。」
老刑事はじっとわたしを見つめた。
「こちらの連絡先が小生に大切なものになりそうです。」
「思うほど、時間はないかもしれない。」
わたしがそう言うと、又兵衛はなんとも言えない感謝を集めた表情をした。じっと川の方角を指を刺して
「河川敷の高台から見ると、中洲や川辺にああやっていくつか木があるじゃないですか。」
「木?」
「そうです。川の本当に流れているすぐそばにね。あれじゃあ、台風が来て大潮になると、水の底に沈んでしまうんです。」
よくわからない話題だと感じながらわたしも合わせて川面の方を見つめた。たしかに、真っ平の河川敷にいくつかの樹木が残っている。
「でもいくつかの木は、ずいぶん長い間、台風で何日も川面に出れなくても、耐えて葉をつけ直すのですよ。小生はそれが好きでね、河川敷を歩く時にいつも、ここまで水が来るとあの草も花も流されるなあ、と思ったりして眺めるのが好きなんです。」
わたしは味わうようにその言葉を聞いていた。関係のない話題だったが自分の知らない場所で何かが繋がる気がした。
「そもそもだけどね、どこかで、金石が最後にこの警視庁本丸で仕事をした人間と関わってみたかったんですよ。」
「……。」
「まあ、正直にもう申し上げますとね。」
老刑事はわたしの私用の個人情報をありがたそうにしまいながら頷いている。
「又兵衛さん、あなたは金石とは。」
「ええ。そうですね。奴が、入った頃からですからね。まあ、その時には小生はもうA署のお荷物だったんですが。小生みたいな人間の下についたから、可哀想なことをしました。」
その言葉には、わたしは、相槌をしなかった。
「ただね、あいつは本当に立派な刑事になりました。A署でも大活躍だったから本庁に抜擢されてね。でも偉くなっても変わらず、懐かしがってくれてね。もうだいぶ昔のことですが。ただ、あいつが最後に仕事をしたのがあなた、だと言うことで腑に落ちました。」
「……。」
「金石もまあ、もっと別のやり方もあったかもしれないという貴方のご意見もあるのかもしれませんがね、どうですかね、敵はそんなに甘くないと思うのです。あいつはまだ、この世の中のために働いてるんだと思っています。そう信じています。警察の本丸からのやり方ではないかもしれないけども、どこにいたって世の中の正義を貫こうと動くことはできる。まあ、それもあいつの人生だから。」
又兵衛はそう言って、話を切り上げるようにした。
「ずいぶん、長い一日になりました。でもおかげさまで、賽は振られたと思っています。あとは、どうなるか楽しみです。ただ、おっしゃったご指摘は尤もですので、このいただいた番号に万が一のものを送らせてください。」
そう言うと、又兵衛は河川敷をわたしの歩こうとする方角と逆向きに向かおうとした。
別れようとする又兵衛に、わたしは初めて自分の腹の底からひとつの声を出した。帰る前にひとつだけ聞いておこうとしていた質問である。
「又兵衛さん、ひとつだけ、いいですか。」
「……。」
「昨日あなたは、エスについて興味を示した人物が五年前にいたとおっしゃっていましたね。」
老刑事は、帰路につこうとする背中を止めた。
「はい。」
「興味を示した組織というのは、それも秘密結社か何かですか?それとも警察関係だろうか。」
少し力んでいるわたしの声に、又兵衛老人は立ち止まったあと、肩で呼吸を整えたように見えた。
「銭谷警部補、組織ではありませんよ。」
又兵衛はそう言って、わたしの目をしっかりと見つめた。
「組織ではない。」
「はい、組織ではないですね。」
「いち個人が、問い合わせに来たということですか。」
「はい。本庁の六階で申し上げた通り、あの事件の後にわたしのところにとある個人の方から問い合わせがあったのです。」
「それは…。どういう人ですか?」
「貴方もご存知の人物です。本当にご存知なかったのでしょうか?」
「はずかしながら。」
「おどろきました。てっきり把握されているものと思っていました。もちろん隠す意味もないですから。五年前、小生に会いに来たその人物は、太刀川龍一です。」