百六八 歓送迎会(石原里見巡査)
石原は虎ノ門の居酒屋に一時間以上遅れて到着した。
参加者は十数名いたが誰もが既に酒を飲んで酔いが回っていた。テーブルには飲みかけたレモンサワーや日本酒が不揃いに置かれていた。それぞれの席で、それぞれが車座になって酒を酌み交わしていた。顔を赤くしてる人も何人もいた。典型的な警察官の飲み会だった。
「おお、石原。やっときたか。まぁ座れよ。」
と、小板橋が石原を見つけて自分の左手の座席を指した。
「おつかれ。ビールで良いか?」
テーブルには、捜査一課以外にも、交通課や警務など、別のフロアの人間もいた。小板橋はその一人一人を石原に紹介した。こういう会は巨大な組織においては貴重な懇親の場でもある。
「そうそう。まさに石原の話をしていたんだよ。」
「私のですか?」
「まぁ石原と言うよりかは、銭谷さんだけどな。」
石原里美は、はっとした。まさかこの一週間の動きの裏を取られたりしていると言うことだろうか、と思った。しかし小板橋は
「いや、この間、とある大物を取り調べした時の話だよ。ほら。あの少し手伝って貰おうとしてた、例の件。」
とだけ言って、少し酩酊感のある眼差しで石原の方を見た。
「ああ、Tですね。」
「そうそうT。まあ、なかなかあのままじゃ厳しいだろうというさ。なんていうかさ。」
小板橋が語り始めたのは先日の太刀川の追加の取り調べのことで、よくよく聞くと、捜査一課二係のエースである銭谷警部補に自分がこんなことまで言ってやったよ、という平凡な自慢話だった。
「まあ、若者なりに俺も思うところがあるって訳ですよ。銭谷警部補がかつてのエースなのは確かだけどな。伝説的な。」
小板橋は<かつての>、と付けるのを強調した。
「やり方はどんどん変わってきてるからね。あの取り調べじゃあ、なかなか進まんと思ったね。」
いくつかの言葉を石原は胸に飲み込んだ。銭谷はここには呼ばれてはいなかった。本人不在で話したい内容なのだ。
居酒屋に集まった人間はみな、若かった。三十代前半の小板橋が最年長だろう。
「でもこれもまた極秘だけどさ、あの人は実は、問題を抱えてるんだよ。」
「問題?」
石原は知らぬふりをして、相槌した。
「ああ、早乙女課長がそれで苦労してるらしいんだ」
「捜査一課長が苦労している。」
「まあ、銭谷警部補も次の人事で終わりかもしれないんだ。」
石原はぼんやり聞いたが、むしろ他の人間の方が興味を持っていた。
「ええ?そうなんですか?上に行ける人だとおもうけどなあ。だって実績は申し分ないじゃないですか。警視総監表彰二回でしたっけ。三回かな。それにあの早乙女捜査一課長の元直属の部下ですよね。」
「それが、傾いてるって言うもっぱらの噂だよね。」
誰かがそう言ったときに、場はしんみりとした。
「まあ、警察官は、伸びる人の下につかないとだけどな。」
打算的な人事の話になっている。酔ったせいで、言葉が直球になっている。だれもが愚痴っぽくなっていたところで、小板橋が、
「なんかおれこの間、銭谷さんが、A署で首になった人間と、日比谷にいたのを見たんだ。」
「なんでA署なんてのを」
「ほら俺、そっちの出身で、その人は有名なんだよ」
小板橋がA署の出身であるのは、石原は聞いたことはなかった。
「ゆうめい?」
「公金横領さ」
「へえ」
「白髪で真っ白。太ってて背が低い。名物刑事だな、あの人も。それが公金を横領だなんてのは驚きだけど、なんでそんな人が、今更、警視庁の銭谷警部補と二人でいるのかね。」
小板橋は、銭谷警部補のことをやはり、あまりよく思っていないらしいが、石原には実力ある人間に対する男の嫉妬が混ざっているのを感じた。
「でも石原は銭谷警部補とはよく話してるよね?」
「え?」
「銭谷さんとなにかあるのか?」
小板橋の目は、真っ直ぐ石原を見た。
「なにもないです。どうして?」
「でも、俺が会議室を出た後、話してただろう。」
小板橋が言ってるのは、太刀川との面会の後のことだった。何かの匂いを感じてる様子ではある。石原は落ち着いた表情をしたまま、
「いや、特になにもないとおもいますが。」
「タバコ場で話すくらいか。」
「今タバコも辞めなければと思っているところです。」
「まさか男女の中ではなさそうだな。」
よく見ると、小板橋はかなり酔っているようで、顔色は変えてはいないが目が濡れている。
「冗談は辞めてください。」
「忠告じゃないけど、あの人は気をつけた方がいいぞ」
日比谷でカレーを食べたりしたのは知らないらしい。ましてや上野で一緒に刑事論や、その延長で警視庁のあり方を語らいあい、隠密の捜査を今一緒にやっていることも察知していたりはしない表情だった。
「銭谷さんは独身でしたよね?」
警務部の名前も知らない女性が酔って大きくなった声でそう言った。
「いやあの人は、これかもだから」
「これって。」
「いやあの年で、女性に興味ないと言うかね。あと、前に警察をやめた人間と噂もあった。」
「誰でしたっけ。それ聞いたことある」
この居酒屋での会話はほとんどそんなふうだった。警官達は酔っていた。話題は支離滅裂なくらいの方が楽しいらしい。
「太刀川まさに、この間の太刀川だよ。なあ、石原巡査」
「太刀川?」
「金石警部補ね。」
「金石?」
「あの太刀川の事件で捜査本部を解散させられた後に、いなくなったんだ」
「ああ、いなくなった人いましたよね。元気なのかしら。」
捜査本部まで作られた事件はそれなりに話題が多いようで、酔ってバラバラだった人たちも興味を示して会話に参加した。
「知らないなあ。俺と同じA署の出身なんだけど、A署の人間とも連絡とっていないみたいだからね。」
「完全に行方不明?誘拐とかでもなく。」
「銭谷さんと同じ独り身だったからね。捜査願にもなっていない。」
「親御さんとかは?」
「どうなんだろう。詳しく知らないけど。」
警察官の仕事にストレスがないと言ったら嘘だろう。仕事そのものもそうだし、人間関係もそうだ。そういう鬱憤を車座になって酌み交わす飲酒行為で、雲散させひとつの塊になっていく。東大法学部卒のキャリア官僚でもない限りは、一般採用の警察官には、永遠に続く現場が待っている。その合間に不思議な経費で飲み食いする時間が救いになるのは、大企業のサラリーマンが経費でシャンパンを飲むのと何も変わらないんだろうと思う。小板橋は上層部に頼み込んで、こういう懇親会の許可を得て、歓送迎会を主催しているらしい。
結果、必然的に誰かそこにいない人間の話になるのは自然なことかもしれないと石原は思った。警察官はどうしてこんなに定例の人事話が好きなのかと思う。六月が来ればわかることなのに、事前に一生懸命知りたがり、こういう場所で情報を収集したりもする。もしかするとここで集まった現場の声という情報を、経費の出し主である人間に報告するのが幹事の小板橋の仕事なのかもしれない、とさえ思ってしまう。
石原はこうやって身内で酒を飲み、人事の話をする空気はどうしても好きになれなかった。飲みたくないのではない。仕事の話だけを、話したかった。それには二人か三人で飲む方がいい。どこかで銭谷のやり方のほうに魅力を感じてしまう。
「あの人...