百六六 老刑事 (銭谷警部補)
「又兵衛さん、ひとつ、いいですか?」
わたしは隣を歩きながら直感的に自分の思うことを彼に言わなければと思った。河川敷は海から内陸に向かう風が吹いていた。
「はい」
「わたしを見せ球に使いたかったと言うことですか。」
わたしはあえてそう言う言い方をした。無論、この作業でわたしが何かの影響を受けることに不満を言いたいのではない。
「銭谷警部補。失礼をしました。ただ、ご存知かとは思いますが、所轄の暴走を、本庁に問い合わせになることなどありません。また見せ球というつもりではない。わたしは、あなたに参加して欲しかった。それだけなのです。」
答えはぼんやりとしていた。そしてわたしの求める内容は違っている。
「又兵衛さん。わたしは、不満を言ってるのではない。」
「しかし」
「正義のためにわたしを使うのは、いつどんなときでも歓迎する。本庁の許可を取る必要もない。刑事がすべて結果の勝負である限り犯罪者の逮捕、真実の暴露に向かうことであれば手順などどうでもいい。少なくともわたしについてはそのとおりだ。」
「……。」
「ただ何らかの形で関わるのであれば、わたしはその仕事に対して意見を述べさせてもらうことにしているーー。又兵衛さん。わたしには今のあなたは無防備に見える。」
老刑事は、リスの瞳をさらに黒くしてわたしを見た。目尻の皺が笑っていないのに残っている。
「なるほど。やはり、無防備でしょうか。」
「悪く言えば無計画だ。いや、今日の日まで何年もかけてきた捜査なのであれば尚更と言う意味だ。」
わたしは老刑事の捨て身の作戦を指摘したーー。
「わたしはあなたが、ある戦術をとったのだと理解している。その戦術は、わたしの眼には命の取引に見えている。」
K組もおそらくここまで動けば黙ってはいない。いや、彼らの内部事情は詳しくは知らない。おそらくK組の過去に関わる何かがあり、それを様々な形でこの老刑事が揺さぶってきたのだろう。
「K組もある意味で命をかけて存在している。彼ら反社組織にとって苦しい時代だとかいうことを言いたいのではない。繰り返しだが犯罪があるなら絶対に許してはならない。そしてその犯罪はおそらくあなたが命で取引をするくらいだから、人の命にも関わるような重大事のはずだと、想像する。いま、綾瀬から埼玉の八潮にかけて歩き、あなたは彼らを怒らせ、彼らが何らかの作戦に出ることを企図している。つまり、このまま放っておくなら、情報をばら撒くぞと、いうことだ。
罠を仕掛けたとも言える。もしかするとそういう罠で彼らが何らかの事件を起こす際にある隙を掴もうとしているのかもしれない。その罠の檻であなたが自分の命を囮にしている理由はわからない。もしかすると、あなたの情報をただ出版社に持っていっても黙殺される可能性をゼロにするため、一度彼らを鉄火場に引き摺り出したいということかもしれない。今の身内の私刑ではなく、小市民である例えばあなたを、攻撃するときに生じる、暴力団らしい不手際や隙を狙っているかもしれない。」
「……。」
「あなたは今日、たしかに、その情報について彼らが下手に動いて潰しにきた場合、A署だけでは収まらないぞ、警察の別班つまり霞ヶ関も動くぞ、という説明をした。そういうボタンを押した。間違っていますか?」
「いいえ、その通り。間違ってませんね。」
「わたしにはやはり、貴方が無防備に見える。」
わたしは静かに繰り返した。例えば途中の指のない男の表情が典型的だ。殺意で冷静さを欠いていた。上層部に間違った報告があがる可能性さえある。個別の構成員の人事やメンツも関わる。やつらは一般市民ではない。勘違いだけで暴挙に出ることもある。
「もちろん、あなたの長い刑事人生をかけた仕事にわたしは何か口を挟むことはない。ただ」
わたしは少し呼吸を整え、言葉の覚悟をしてから、
「喩える例が正しいかわからない。ただ、金石とわたしが陥ったようになって欲しくない。」
気がつくとその言葉を吐いていた。
「ご存知のとおり、わたしは金石と一緒に動いていた。また別の見えない闇というような、あなたが昨日言ったような相手を白天の下に引き摺り出そうと、似たようなことをしていた。しかし、我々は甘かった。」
「……。」
「全て消されてしまった。客観的に見れば作戦の失敗ともいえる。相手の方が、何枚も上手だった。偶然そうなったという考えもあるかもしれないが、わたしはそうは思わない。金石は突然いなくなった。奴が逃げたとか誰かに攫われたとかはまあいい。ただ、揺るがぬ事実として、全てが止まってしまった。」
「……。」
「金石はなにひとつ残しませんでしたから。残してももう一人失踪者が出るだけで、まあ当然と言えば当然なのですが。ただ、そうなってからでは、遅いとも言える。」
「遅い。」
「ええ。そう思いませんか。巨きな闇に向かう限りは必ず、突然、そういう展開は覚悟しなければならない。聞いておけばよかったこと、残しておいてもらえればよかった証拠、文面、など、消えてしまうくらいならば、もっと別の会話もできたとおもう。」
又兵衛はじっとわたしを見つめたままだった。わたしはきっと恥ずかしい人に見せたくないブザマな顔をしていたはずだが構わず続けた。
「でも、あなたが暴こうとしている真実が巨大であるなら、事実を隠し消去したい人間は命を懸けて貴方に向かう。いや、権力者の常套手段として、命懸けの命令を受けた末端の人間があなたの失脚を画策してあらゆる場所に発生する。それがK組なのか、また違う何なのかは知らない。ただ、人間は自分の命や地位の有限であることを設計することは難しい。金石とわたしはそれができなかった。」
わたしはもう恥ずかしい気持ちは消えていた。
「ですから、最悪の事態を想定するべきだ。例えばあなたが一人で明日、死んでみつかったら、あなたが人生を捧げてきたおそらく膨大な作業実体に対し、わたしは何もできない。それではわたしは、今日という一日を永遠に後悔することになる。」
わたしはそう言って、老刑事を見つめ返した。明日死ぬ、という言葉をわたしが自然に使ったことを、老刑事は懐かしいもののように見ていた。そしてなぜか嬉しそうに
「こんな老人が死ぬ時なんて喩えは、もったいないですが。」
といって、少し久しぶりにタバコを取り出して美味しそうに飲んだ。しばらく互いに空を眺めたりして、静寂が訪れた。
「銭谷警部補。言われてみて、その通りかもしれないですね。いやあ、そうか。」
又兵衛は心が整ったような表情で続けた。
「ずっと一人だとね、頭が凝り固まってしまいがちです。全てはこの頭の中か、誰も読めないようなノートに書いてあるだけですが、そうですね、何かがあれば、そんなものは消えてしまうに違いない。」
「……。」
「銭谷さん、少しだけ、待てませんか。なにも全く準備も何もないわけではない。わたしも誰かに伝えたいと思っていたことも少しあるのです。もしよければそれをあなたに見てもらえないかと。」
「わたしに?」
「ええ。本庁のメールはだめですからね。たとえば私用の携帯電話などはお持ちですか?」
又兵衛はわたしがそれを持っているのを知ってるかのように言った。
*
「 捜査で得た情報を今知りたい...