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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 168 章 百六五 綾瀬の家 (軽井澤新太)

百六五 綾瀬の家 (軽井澤新太)

 綾瀬の駅から、下町風情の静かな土地を歩きました。
 古いその家は、誰かが暮らしている様子がほとんどありませんでした。もう陽も暮れかかるというのに灯はついておりませんでした。わたくしは幾度か呼び鈴を押しましたが家の中に流れる電子音が寂しく鳴るばかりでした。
 ふと女子学生がわたくしの横を通り過ぎて行きました。
「すいません。」
「……。」
「あのう、こちらのお家の方についてお聞きしたいのですが。」
「すいません。わたし、わからないです。」
 学生は何のことかわからないという、態度です。その表情はわたくしの質問に対する純粋な対応でした。つまり、この家の持ち主のことについて、知らないのだと思われました。
 実際のところはそうなるはずです。もう遠い昔のことなのですから。
「すいません。ご近所の方でしょうか?」
 わたくしは幾度となく、通行者に声をかけました。
「いえ、ちがいます。」
「失礼しました。突然呼び止めて、申し訳ございません。」
 また別の学生が礼儀正しく去っていきました。人通りの少ない路地です。しばらくしてまた一人、これは少し妙齢の主婦が歩いてきたので、わたくしは声をかけました。あえて、明確に家の方を指しながら、行く手を遮るように、わたくしが声をかけたときです。主婦は突然、
「雑誌社かなにかの方ですか?」
 と、言いながら立ち止まりました。
「いえ。雑誌?」
「その、また何か取材ですか?」
 できれば関わりたくないのだというような空気をさせつつ、わたくしをじっと主婦は見つめています。買い物の帰りのビニール袋を左手で握っていました。
「いえ、取材などではございません。この家のことについてわかる事があればお聞きしたくて。」
「……。この家のこと、ですか」
 主婦は冷たく目を細めました。
「もう知りません、わたくしは。」
「ご存知なことだけでも。」
「最近はこのとおり。なんにもないですよ。」
「最近は、ですか。この家に暮らしてる方についてはいかがですか?」
「本当にわからないです。申し訳ございません。」
 最初に声をかけた学生は何も知らない様子でした。おそらく地元の古い人間ではないのでしょう。しかし、この主婦は違いました。何かを知っています。
「雑誌の方ではないのですか?」
「はい。」
「この家に人が出いりしたり、戻ってきてたりするのを見たりはされましたか。」
「わからないです。」
 主婦はその後、わたくしに、<もうおやめなさい>、という眼差しを向けたように見えました。遠い昔の悲劇を雑誌記者の風情で集めることだとすれば、それは、そうなるのでしょう。主婦は明らかに昔からこの場所にいたことがあり、昭和の時代にこの周辺に関わったことがあったのでしょう。もう今更何も生まれないでしょうし、何も解決しませんよね、という言葉が聞こえたようにさえ思われました。しばらくの無言の観察の後、主婦は小さな会釈をして去っていきました。
 わたくしは日没し、誰も通らなくなった後も、その家の前でたたずみました。家には電気はつきませんでした。しかし、人が暮らしていないとも言い難い気がしました。ここに暮らしたはずの人間を確かめねばならないとおもっているのです。なぜならば、あの不気味な葉書はこの家にも投函されたかも知れないのですから。この家を本籍にしている人間宛に。
 外灯も疎(まばら)な古い住宅街でした。わたくしはひとり、張り込みの刑事のようにその家の前で時間を過ごしていました。

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