百六四 背後の男(赤髪女)
波が埋立地の垂直な護岸を打っている。
砂浜などなく、切り立った鋼鉄製の埠頭が、いかにも人工的に海を直線で裁断している。その上をカモメがゆっくりと舞っている。
赤髪女は、昨日の夕方に誰かがいると思った場所に人がいないのを確認しながら、恐る恐る目的の場所に到着した。新木場の駅からここに向かうときも、幾度も後ろを振り返っている。尾行の対策は、あからさまにやる方が良い。
昨日の場所からまた電信柱一つ海に近づいた場所だった。広大な敷地を使った工場があり、ミキサー車やトラックが往来する。住居はなく、人間の生活の臭いは一切ない。昨日の人影はこの光景の中で異質に思えた。遠目にも人間じみた生臭さを感じたのだ。
赤髪女は指示者の指定した電信柱の足元近くにうずくまり、昨日、一昨日と同じようにその封筒を貼ると、周囲を見ずに立ち上がった。そのまま駅まで歩く道を戻ろうとしたときだったーー。
何かが赤髪女を後ろ手でつかんだ。暗い声が背後で、
「前を向いたままだ。」
「……。」
「振り返れば命の保証はない」
ヘリウムの声ではなかった。全身を戦慄が走る。赤髪女は常に、後ろを気にして歩いてきたはずだ。今日はむしろ、誰かに尾行されている気はしなかった。まるで存在を消してきた幽霊が今ここで人間になったような気がした。それくらい非常に高度な尾行の能力を持っていることになる。恐怖が襲った。
「そうだ。黙って答えれば何も起こらない。いくつか聞きたいことがあるが、良いか?」
その声は、赤髪女が一度も聞いたことのない声だった。冷たく暗い声だった。
「……。」
「正しいときだけ、ゆっくり頷いてもらいたい。」
「……。」
「よくわからない金を届けに行く理由を把握してるか?」
女は首を振った。
「正しいときだけだ。筋肉を使うな。正しい時にゆっくり頷くだけでいい」
「届けている相手を詳しくは知らないな?」
女はゆっくりと頭を下げた。
「知らないのだな。」
もう一度ゆっくり頭を下げた。
「……。」
赤髪女は恐怖した。
背中に人間を感じるが、熱がない。
冷たい。
ただ、上から抑えられる身長の高さを感じる。力は強いというより、なにか岩石のような不動感が強い。
「この数年間で幾度となく我々は貴殿に仕事を頼んできた。しかし、その最後の仕事はもう一年も前になる。そのことをご存知か?」
「!」
赤髪女はその言葉に動揺した。身体が硬直しそれは背後にいる男に伝わるほどだった。
「正解のようだな。どうやら今回は筋の違う仕事を受けていたようだな。」
たまらず、赤髪女は声を出した。
「どういうことですか?」
「声を出すな。自分を大切にしたほうがいい。」
「でも。」
「わかるだろう。」
赤髪女は全てを理解した気持ちになってゆっくりと、うなずいた。ゆっくりとうなずくことは、許されている。
そうしてしばらく沈黙があったのに、背後の男がとても小さな声で
「我々は貴殿が他の仕事をしたりすることを特に気にはしない。そう伝言しておこう。」
「伝言。」
「いいか。大事なことはこれからだ。その仕事は一切、我々とは関係がない。今後どうするかは任せよう。しかし、我々の仕事と何らかの混同、ないし虚偽の作為を行った場合は、どうなるか覚悟はしてもらった方がいい。」
「……。」
「言ったことは理解したな?」
「つまり」
「仕事を混ぜるなということだ。気をつけることだな。」
赤髪女は、うなずいた。
「うむ。では、そのままだ。」
「……。」
「後ろを振り返ったり、今後、何かを逆算して調べれば、命の補償はない。」
「……。はい。」
「海の方角を向いてもらおう。」
「……。」
「そのままだ。今から、千まで数字を数えながら、ゆっくりとこの先の突き当たりまで歩いてもらおう。絶対にふりむかないことだ。振り向いた場合、別の人間が頭を撃ち抜く可能性がある。その人間のことも俺は知らないから、止めることはできない。」