百六三 反社行脚(銭谷警部補)
A署の方面へ向かう千代田線で又兵衛とわたしは無言だった。
少し前、警視庁の六階で又兵衛刑事がわたしに語ったことを整理していた。
①過去の事件が発端でA署の所轄内の暴力団界隈で、何かが起こっているらしい。
②警察と反社会組織の癒着の問題が存在してきた、と又兵衛は考えている。
③古くからの諜報組織について又兵衛は研究があり金石と近い考えを持つ。
地下鉄の中、又兵衛の隣の席でわたしは、A署の関連する事件を五十年以上昔から順に辿っていた。
脳裏に一つの事件を想定しつつあった。
A署の管轄で起きた事件といえば、その事件を想定してしまうような、嫌な事件である。無論ほとんどの解決済み事件がそうであるように、その事件もすでに時の彼方にある。そもそも又兵衛の指摘するような❷の警察不祥事や❸の諜報組織の類がその事件に絡んでいる気はしない。
地下鉄の座席に腰掛け、又兵衛は、ほとんど目を瞑っていた。あの動物のような瞳を閉じると、見た目はどこにでもいる老人だった。刑事は歳をとりやすいという言葉をわたしは思い出した。苦労が多かった人生なのだろう。
西日暮里から北千住を過ぎ、地下鉄がすっと角度をあげて地上に出たところで、突然又兵衛は立ち上がった。次は綾瀬駅で、既にA署の管轄だった。
綾瀬駅を降りると、特に迷うこともなく、歩き始めた。
又兵衛老人の脳裏には、所轄の暴力団事務所の住所が入っているらしい。
わたしは無言で又兵衛についていった。まだ若い刑事の頃、先輩について足で稼いだ時代を思い出した。速過ぎず、遅過ぎず、淡々と足をすすめる。又兵衛は、よく歩いている刑事の足だった。先を急ぐ一定の速度が理想的だった。綾瀬は駅前すぐから住宅が始まる。最初の事務所は、綾瀬川の方に徒歩十分ほど歩いた川近くだった。見上げるような土手から一筋入った何隔てない普通の住宅地に、少し異風に歌舞いた黒塗りの家があった。
臆することもなく、老刑事はドアを叩いた。
「警視庁です。」
しばらくすると、中からわかりやすいその道の若者が出てきた。
「またあんたか?ちゃんとA署の中でも担当を通してもらいたいな。」
「今日は、少し違います。いつもと。」
「なにい?」
「警視庁のね、本丸の刑事さんもきてもらっていますから。」
「どういうことだ?」
「本丸の霞ヶ関が動いているということですよ。みなさんの身内の私刑の騒ぎについてです。」
「何がだ?」
「なんでもいいんですよ。とにかく茶でも飲ませてください。」
そう言って老刑事はにっこりと笑った。それはなぜか年長のものが街の後輩に優しく微笑みかける様子にも思われた。目尻の皺が深かった。
又兵衛は端的だった。
「もう一度改めてお尋ねします。こういう写真が警察宛に送られてきている。心当たりはないでしょうか?」
と、彼らの身内の私刑の写真を見せるのである。写真は典型的なリンチの現場で、瀕死の重傷を追った人間の写真である。見るものが見ればこの看板ーーK組の構成員であることはわかるのだろう。決して末端の若者の写真でもなかった。むしろ傷ついているのは高齢のベテラン組員が多い印象だった。
本来であればそんな写真は警察までは出回らない。もっといえばそんな写真などは撮らないし、抗争や縄張り争いならこんな手順を踏まずに殺すことの方が多いはずだ。それがわざわざ写真にして出回り、挙句、警視庁にまで送られてきている、と言うのが又兵衛老刑事の説明である。K組の人間も、身内の人間が重症を負っている写真なのもあり、一定の興味は持ちながら、何故か表情を曖昧にした印象で、この老刑事を避けている。
「これがA署だけならいいけどですね、こちらの霞ヶ関の本庁にまで届いておると言うんです。それは警察組織としても、少し話が違って参りますから」
と説明を加えた。なるほどーー。
<わかりやすい>役者を一人置いたということだ。
すでにA署の正規の組織対策担当者ではない又兵衛が、本庁の論理を使う。こうすれば組織の縦割りで、裏どりを行うことが難しい。少なくともA署の中だけの処理がしづらくなる。そういういくつかの設計を感じる。
「どうですかね。こんな写真を警察に届けるというのは、みなさんらしくないですよね。」
「わかんねえなあ。」
「わからなくはないでしょう。」
「何とでも言えよ。…今はみんな出払ってるんで。」
昨今の暴対法のせいか、恫喝をしてくるようなことはなかった。ひと昔前であれは、こんな訪問でも、気が狂うような罵声を浴びせて息を撒く若手組員がいたものである。近年は、彼らは、ただ、難しい視線で、殺意かどうか判りにくい視線を漂わせるのみである。
「いかがですかね?心当たりや聞いた話でも良いんです。」
「知らねえなあ。」
「あと、前も申し上げたあの件はどうですか?」
「あの件?」
「葉書ですよ。何だか、不思議な葉書が出回ってるとかいう。この事務所にも来ませんでしたかね。」
「葉書?」
「この界隈の組員の中で、そういう噂があると聞いているんですが。」
「知りませんね。」
暴力団構成員の若い男は本当に知らないのか、威勢を張りたいだけなのか、壁のような顔でそう言った。上層部から言葉を禁じられているのかもしれない。茫漠とした殺意か単純な威勢なのか判りずらい表情を我々に投げ返していた。若者の顔面をぼんやりと眺めつつ、わたしは葉書という唐突な言語がそこに置かれたのが気になった。
一つ目の事務所はそれで終わりだったが、基本的に何か明確に目に見える成果があるわけではなかった。
ただ、川沿いを歩いて北上して入った次の事務所でも、又兵衛刑事は同じ会話を繰り返した。ほとんどが同じ会話である。
事務所は小さな家であることが多かった。K組の関連事務所だけを、繋ぐように老刑事は歩いた。次第に綾瀬駅からはだいぶ距離が離れた。綾瀬川沿いを北上して民家の太刀並みの間の細い道を歩いた。河川が多くそれを守る土手が多い。その土手より低い家がほとんどだった。我々は徒歩でいくつかの橋を渡った。
「あの先から、埼玉ですね。」
「もう、こんなすぐですか。」
「入り組んでいてね。川の湾曲に合わせて、県との境があるのでね。」
そう言って、少し高台になる綾瀬川の堤防に立ちながら、老刑事はじっと埼玉の方角を眺めた。
図X 地図X
我々は県境を越えて、埼玉県の八潮とか三郷、という地域に入っていた。ある一定の間隔を持って、K組の事務所は存在した。埼玉にも多い彼らの事務所を順に扉を叩いた。どこも、似たような風情の人間がそこにいて、似たような眼差しで又兵衛の話を形だけ聞いた。
最初の綾瀬川沿いの事務所から数えて、五箇所目だっただろうか。
又兵衛が例によって写真を見せたり説明を始めようとする時に、相手の男が少し違和感のある強さで遮って
「まあいいや。シノゴのはうるせえからさ、まとめるとあなた、何を調べてるんですか?」
と、前のめりに聞いてきた。
その声と表情は明らかに殺意が丸出しだった。
どうやら、K組の中でも情報が回ったらしい、とわたしは感じた。声と空気が変わっているのは幹部からある程度の指示が出ている証拠だろう。
その組員の左手は指が根元からふたつ欠けていた。
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