← 目次へ
星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
第165章をXでシェア
第 165 章 百六二 埼玉八潮(石原里見巡査)

百六二 埼玉八潮(石原里見巡査)

 八潮の駅を降りた太刀川は、住宅街をほぼ迷うことなく歩き、駅からさほど遠くないその家に入った。少し世代の古い宅地で、昭和のころの街だった。いくつかの家は新しく改装されたり新築されたりしていた。太刀川の入った家の前を、変装したままの石原里美巡査が通り過ぎた。表札だけ目で読み取った。
 川田木という表札が読めた。なにか慈善事業をする企業や中規模の団体が存在するような家ではなかった。平凡などこにでもある家に思えた。太刀川の知人や関係者の家なのだろうか。太刀川は福島の出身だが、親戚でもない限りこの埼玉の住宅街は違和感があるように思えた。
 石原はしばらく歩いてから、道に迷った小さな芝居をして、川田木という表札の掲げられたその家を再度確かめて、通り過ぎた。そうしてブロック一つ離れてから、辺りの地図を確認し、少し離れたあたりで別の家の呼び鈴を押した。閑静な住宅街だが、少し高齢化が進み始めている印象の家並みだった。
「簡単なフィールドワークを行なっていまして。」
 石原が挨拶したのは、典型的な六〇過ぎの女性だった。
「フィールド?なんですかね。それは。」
「まあ、国勢調査の一種と思っていただければと思います。」
「へー。そんなのあるんですか。今まで経験は無いですけども。」
「はい。ランダムに住所に宛てておこなっています。視聴率調査と一緒ですね。あれも本当になかなかやったことがあるという人も少ない。」
 警視庁と言う言葉は強すぎる。また、ここは厳密に言えば埼玉県警の管轄でもある。本当のことを言えばややこしい。
「民間の調査か、なにかなのかしら。」
 もちろん知りたい事は、太刀川の入ったへ表札の家が、この辺りでどんな存在なのか、であるが、いきなり直接それを聞く事はおかしい。
 目の前の主婦は少し怪しいものを見る表情だった。同じ女性同士の邂逅がないなとおもったが、石原は自分自身が中年の眉の濃い男の格好をしていると言うことを少し忘れていた。
「はい、そうですね。まあ、皆まで申し上げますと、実は、探偵調査でして。」
「へえ。」
 R0224の影響で用意した、簡単な名刺を石原は差し出した。こういう名刺を持つことで安心感が増すのであるが、実際に役に立つとまでは予想しなかった。自分の人格を徹底的に設計せよ、か。
「ご存じないかもしれませんが、都内で探偵をしています。」
「へえ。都内で。」
「はい。実は、この二丁目の界隈全体を調べております。理由はと言うと、資産家というか、旬の金持ちというのはまぁ嫉妬深いかたが多いのですが、この界隈の女性との不貞関係を調べておりまして。」
 不貞という言葉を石原は、意図的に置いた。ほとんどの人間が不貞や不倫という言葉の響きには立ち止まる、というのは本当だった。
「本当ですか。」
「ええ。嘘を言いに埼玉まで来ませんよ。」
「まあそうね。この界隈はもう古いので、若い女性はあまり住んでませんけどもね。若い女性はわたし知りませんのよ。」
「いえいえ。年齢と言うのはいつになってもわからないものです。不貞というか、そういう熱情には、むしろ驚いてしまうようなことが多いものですよ。」
「この二丁目十五番地で、でですか。」
 石原は、主婦が前向のめりになるのを感じた。
「はい。二丁目で調べてるんですが、まぁレポートは無記名で、もちろん依頼者以外誰にも見せないものですので、自由に話していただければと思います。」
 そう言って石原は説明のタイミングで商品券を取り出した。こういうときのために常に取材協力の経費を用意してはいる。これは捜査一課の経費である。
「まあ、でも、そもそも女性はこのブロックだと、みんな高齢で介護に通ったり寝たきりだったりですよ。元気にしているのは私のとこと、山田さんでしょ、あとは、川田木さんのとこもはさすがに良い御年ですから、不倫のイメージなんて全然。」
 しめたとおもった。向こうから言葉を晒してくれた。
「まあ、探偵と言うのも世知辛い商売でして、レポート並べれば経費をもらえるものだったりもしますので。気にせずにお願いします。不貞関係に竿を指したいのではなく、レポートを作るためだけですので。」
「なるほど。」
「その山田さんや川田木さんについてでもいいのでぜひ教えていただけないでしょうか。」
「いや、どうですかね。山田さんに会えばわかると思いますけど、その方向は完全にないというか。もうお年ですし、そんな感じはないですね。まあそうです。川田木さん、川に田んぼのたの川田木さんは綺麗にしてらっしゃるけど、でも、もう不倫なんて全く考えづらいよなおうちですけどね。子供みんな東大に合格して近所でも自慢のママさんでしたから。」
「全員東大ですか?」
 ふと太刀川の経歴のことを思い出した。東大在学中に起業したのがパラダイム社ではなかったか。子供たちは同級生とかそういうことがあったりするのだろうか、と思いながら
「川田木さんはおいくつくらい、いや、そのお子様はおいくつくらいなのでしょうか?」
「三兄弟ですか?」
「ええ。」
「そうですね、大学がみんな東大だなんて、この辺りじゃあ珍しくで、そんな話題をしていたのは、もう一昔前ですからね。今はもう五十ちかく、とかになっているんですかね。弟さん二人は出世して弁護士と、官公庁にお勤めだったと思いましたけどね。」
 嫉妬深そうな主婦は他にすることも話すこともないのか、玄関で茶も出さずに立ち話を続けた。
「ああ、そういう年代ですね。」
 石原は、太刀川と同世代かもしれないという勝手な想像を止めた。五十代と三十代では、さすがに関連は考えにくい。
「川田木さんがそんなことするかなあ。まぁあの家も大変だったりするから、いろいろあるのかなあ」
「たいへん?」
「ええ」
「そんな自慢の息子が三人も東大に行ってたらお母さんは幸せでしょうに。」
 ふと石原は警視庁にもいる東大法学部出身のキャリア官僚を思い出した。雲上人の人間である。早乙女捜査一課長のさらに上に、若くしてやってくる、我々とはほとんど関係のないような、遠い存在が、東大という言葉の響きと重なった。
「まあ、いろいろわからないものですよね。」
 主婦は少し会話に引き出しをつけた。よほど暇らしい。
「実は弟さん二人は良いのですが、その長男が、ずっと寝たきりなんですのよ。」
「ねたきり?」
「植物人間って今は言っちゃいけないんですかね。脳死ともいうんですかね。」
「脳死。」
「ええ。もう人間は死んでいるのに、身体だけ呼吸したり心臓が動いたりはするんですよ。ほら、だから、例えば、臓器移植とかして、若い子供が助かったりするでしょう?」
「臓器、ああ、心臓とかの。」
「そうです。そのドナーになる人ですね。脳死していると、そういう世の中の役に立つ可能性なんかがあるとかで」
「なるほど。」
「東大に受かった人の心臓ですからね。わたしもどうせもらうならそういうのがいいですけど」
「そういう心臓を渡すんですか?」
 石原はさほど興味が薄れつつも、他に周辺に手段もないため、適当な質問を繰り返した。そうやって主婦との会話をしながら、別のこと、太刀川が、何故こんな場所にわざわざくるのだろうかを考えていた。つくばエクスプレスにはほとんど人がいなかっ...

文字
明暗
組方向