← 目次へ
星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
第163章をXでシェア
第 163 章 百六十 続・来庁(銭谷警部補)

百六十 続・来庁(銭谷警部補)

 バーでの金石の横顔を思い出す。
 大きな手のひらで小さく包むウィスキーグラスを揺らして、
「銭谷。まあ聞いてくれ。」
「……。」
「今回の六本木の事件はそう言う重宝的な組織が関係すると思うんだ。」
「雲を掴む話か?」
「まあ、聞いてくれ。」
 泥酔した時に限り金石はそう言う話題になった。彼が、わたしに語ったのは、その組織は今も脈々と存在しているという、まことしやかには信じがたい話だった。その諜報組織に関係する人間らは、時には、麻薬を運んでいたり、毒物の作成や混入をさせたり、脅迫や強盗の一翼を担ったり、殺人の片棒を担ぐことさえあるという内容だった。そしてそう言う人間は普通にこの日本の随所に存在していると言う。
「どうだろうな。」
 会話の都合上、わたしは反論する役回りだった。そもそも、この日本での「諜報」という存在は終戦と共に役割を終えたはずだ。旧軍部の特務機関やそれに対抗する市井の諜報組織などが、今も脈々と存在しているなどというのは常識的ではない。
 しかし金石の考えは常識(パラダイム)の外にあった。
 常にそうだった。
 バーで酔いが進んだ時にだけ、そのことをわたしに幾度となく語った。わたしは幾度となく反論した。そんなものがあるなら、もっと世の中で話題になるだろう、と。メディアも放っておくわけもないし、もしくは本当に存在するのならば、警視庁で表立って調べるべきだ。個人で動いたりなどしたら、何が起こるかわからない。いや、それは恐ろしく危険なことだ。ミイラ取りがミイラになる。<帰れなくなる>。もしそんな組織が本当にあるというならば。
 わたしの反論に、金石は決まって彼らしくない笑顔になった。
 その笑顔は、巨大なものを前に仲間が道連れになってくれないものを悲しむような、諦めに似た表情だった。
「覚悟の上だよ。」
 言葉を提示した後に、左手でウィスキーの氷を鳴らすのが彼の癖だった。
「でも金石。そんなことをしてると、帰れなくなったりはしないか?」
「帰れなくなる?どういう意味だ?」
「仮にそんな組織が、警察本体と同じくらいの歴史で昭和の昔から存在するなら、そんな秘密を暴くなんてことをイチ刑事がすることは危ないのではないか、という意味だな。」
「下手を踏めば、当然そうなるだろう。だから今、全体を一気に捲(めく)るために動いているってことだよ。捜査一課のエースにも参加いただいてな。」
「何もできていないが。」
「そんなことはない。それと銭谷が今喩えたように俺はもう<帰れなく>なってもいいとさえ思ってる。逆にお前はどうだ。」
「……。」
「刑事になる前の銭谷に聞きたいね。」
「どういう意味だ」
「おれはお前に、いま刑事になった最初の気持ちを聞いているんだよ。正義という言葉の響きで、この世の悪い奴らを捕まえるぞと、思った十八歳の銭谷だよ。」
「……。」
「事件は突然やってくるぜ。その場面を選んで生きることなど人間はできないだろう?自分の側で、判断の設計をしておく事が必要なんだ。」
 金石の声が内耳に揺れている。
 *
 老刑事はわたしを見ていた。
 わたしは、金石と飲んだバーカウンターの板を撫でるように、警視庁六階会議室の冷たいテーブルに掌を当てた。そのとき、ぞっとする考えが頭の中を回っていた。
 (帰れなくなったーー。金石は実際にそうなっているのではないかーー。)
 わたしは心の動揺を隠すように、湯呑みを灰皿がわりにして会議室では禁止のタバコに火をつけた。老刑事又兵衛が語るたびにフラッシュバックのように訪れる金石との記憶が、精神の裡に次々と不安定な状態を作る。その状態は一つの事実を暗然と物語っていた。この老刑事又兵衛の言うパラダイムとその外側との間に生じる不安定さなのである。そしてそれは金石の失踪ともーー帰れなくなるという言葉とも重なり合う。
 わたしの精神状態の壊滅を気にもせずに、又兵衛はじっとこちらを見つめたまま長弁舌を続けた。
「……戦前のそういう組織には当然、名前もなく、事務所も銀行口座もなかったんです。エスなどというのも巷で言われたM資金や黒い霧の議論と同じで、非関係者の外部の人間が名付けたに過ぎない。本当は名前なんかなかったのかもしれないです。元々は協力者同志の零細な連結で成り立っていたはずです。いや、見様見真似で、戦前の日本の諜報組織が持っていた隠密の手法を用いたのかもしれない。やりかたは、ある程度想像はできます。
 一例を挙げます。
 本格的な諜報組織というものは基本的に多くの参加者は「部分参加」になります。部分ですからつまり、参加する誰もが、作戦全体を知り得ない存在なのです。仮に暗殺が行われるならば、作業は「部分」に分解されます。目標に声をかける人間、親しくなる人間、毒を調合用意する人間、内容も知らずに運ぶ人間、毒とも知らずに飲み物を用意する人間、死体とも知らずに現場の後始末をする人間などは、全て自分の仕事しか知らない「部分」になっている。つまり、二、三十名の人間が、少しずつ「部分」を担当する、これが諜報組織の基本です。少し前にあった北朝鮮の話も、空港で毒を撒いた人間はそれが猛毒のサリンとは知りませんでした。悪戯と聞いて、その協力金で作業をしたのです。もちろん、そこに暗殺目標とする相手がいることさえ知らなかった。おそらくそれを頼んだ人間もその内容を正確には知らなかったでしょう。パズルのピースと同じで、せいぜい自分の隣接者に関わることができる程度です。全体がどういう絵画になっているのかは知る由もないのです。
 なぜこういう面倒くさいことをするかと言えば、捜査一課の貴方には釈迦に説法かもしれません。そうすることで仮に誰かが敵に逮捕拿捕され裏切るとき、「組織」の被害は最小限になります。拿捕された人間は、拷問を受けても作戦の全体を知らないし、死体を埋めた人間は、その死体が死体になった理由さえ知らない。自分の遂行する部分作戦しか知らないので当然です。
 仮に誰かが捕まれば戦争の時代は当然に拷問となります。それこそ拷問のまま殺すことさえありますから、敵に捕まれば命を引き換えにする「亡命」や「組織」を売ることは想定せねばならない。堂々と国家同士が殺人をしあってる戦時に捕虜などになることが如何に恐ろしいことかは想像できるはずです。拷問の結果、情報を持っている人間からは漏洩が絶対に生じてしまいます。連絡網も、暗号も、全て筒抜けになり組織が壊滅させられかねない。なので、上記のように作業を分割し、命令者以外はこのパーティに誰が参加しているかも、何を成そうとしているのかも判らぬようにしたのが、第二次世界大戦の末期、一九四五年頃の常識ともいえます。もちろんそれから半世紀以上が過ぎ、更なる進化はしていると考えられますが。
 世の中の市井の市民が「そんなものは存在しない」と信じているのは日本くらいのことで、平和な国であればあるほど、諜報組織やそれに関連する出先機関、つまり明ん缶の下請け業者は溢れている。多くの日本人はアメリカのスパイ・エージェントはアメリカ人で、ロシアのそれはロシアの人間だと思い込んでいますが違います。下請け業者は、その国の人間です。つまり日本人がエージェントになります。ここでいう出先機関と...

文字
明暗
組方向