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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 161 章 百五八 又兵衛来庁(銭谷警部補)

百五八 又兵衛来庁(銭谷警部補)

 午後の十四時になって、昨夜の言葉通り、A署の老刑事又兵衛が訪ねてきた。わたしは六階の会議室に又兵衛を案内し、自ら飲み物を用意した。太刀川が一週間前に座った同じパイプ椅子に又兵衛は座った。テーブルに茶碗を並べて急須から湯を落とした。
「警部補自らとは、申し訳ございませんね。」
 老刑事は良き市井の老人の行儀作法でわたしに言った。
「いや、人が出払っていまして。」
 嘘だった。誰か若い人間に頼むのも気を使うから、茶の用意も自分でやっているに過ぎない。
「昨日は、ありがとうございました。」
 我々はありきたりの、昨夜のお礼などの会話をし、刑事部屋や捜査一課の話をし、金石のいた場所などのことも一線を超えない範囲で自然に話した。それらは本題に入る前の、刑事特有の前置きだった。
「しかし、霞ヶ関という街は、生活の香りがしませんね。合同庁舎のほうに行ってやっと、マクドナルドがあるくらいですから。」
「……。」
「はは。仕事尽くめのエリートともなると、この方がご都合はいいのかもしれませんがね。こう言った感じの、生活を失った冷たい香りが、この街には必要なのでしょうね。まあ、所轄とは違いますね。」
 暗に又兵衛は何かを含んだ言い方をした。冷たい街、という言葉は悪くはなかった。少なくとも情熱的な芸術や文化の生まれる場所ではない。
「ところで。」
 老刑事は声色を変えた。
「はい。」
 わたしは身構えつつ返事をした。茶を飲むだけの事でこの男が霞ヶ関まで来たりはしない。
「銭谷さんは金石から、とあることを聞きませんでしたか?こう言っては唐突かもしれませんが、まあ、組織のような話です。彼が追いかけている組織です。」
「金石からですか?追いかけている?」
「ええ。彼が、まあ、追いかけていた、というか。」
「組織ですか?」
 少し緊張した。老刑事は今日は最初から酒の力抜きで、本題に入る気なのが分かった。
 わたしが押し黙ると、少しのためらいの後、老刑事は言葉を続けた。
「まあ、金石が直接その組織の捜査をするなどの話ではないんですが、奴は、非公式にそんなこと言いませんでしたかね。」
「組織、ですか?」
「ええ。」
「……。どうだろう。そんなことを言いましたかね。わたしは何の引き継ぎもなく、辞められた側の人間なので、金石がどこまで心を開いていたかも、わからない。」
 わたしは嘘をついた。たぶん、知っている。いや、どこかでこういう話題を昨日の夜も老刑事が入れてくるのではないかと思っていた。
 ただ金石がわたしに、このような霞ヶ関の会議室でそれを話したことはない。一度もそんなことはなかった。そういう話をしたのは、決まって、例の天現寺のバーで、浴びるほど酒を飲んだ時だった。あのバーでだけ、我々は従来のパラダイムの外側での会話をした。もっとも酒の飲み過ぎでそれが会話だったかというと困る類のものではある。
 パラダイム…。
 …世の中には前提(パラダイム)がある。
 常識も全て前提(パラダイム)の上に成り立つ。
 前提(パラダイム)を外れた会話は、人間を人間の関係の中からゆっくり外していく。たとえば地球が太陽の周りを回っているという真実を知ってしまった人間にとっては、中世のパラダイムは難しい。神を信じ、まだ万有引力などと言えない時代には<当然地球の方が太陽より大きい>存在だった。太陽が大きくその周りを地球が回るという地動説は中世で言えば悪魔崇拝である。安易に「真実」を語れば命の危険さえある。
 その場合、方法は二つしかない。
 一つはパラダイムシフトが生じるまで待つこと。
 もう一つは、自分自身で正面から世界への啓蒙を行うことだ。世の中が気がついていませんよ、あなたの暮らしている世の中が信じていることが、間違っていますよ、と言って生活することは本当に厳しい。言葉を選ばずに言えば、命を賭けた作業にならざるをえない。迂闊に自分の言葉を誰にでも話していれば、
 金石は対人処世を熟知していた。
 だから、パラダイムの外側の、聞いたこともない、常識的ではない、闇の組織の話などを本庁の会議室などでは絶対にしなかった。捜査本部のあるような公的な場所では奴は別人なのだ。ただウイスキーを煽って相手(わたし)も酩酊したのを確認した天現寺のあのバーでだけ、そっと、試すかのように隣の席のわたしにその組織のことを言った。
「奴が、いや、金石警部補が追いかけていた組織ですか。」
「どうだろう。追いかけていたかは知りませんが、金石があなたに話したと思うんです。」
「なぜそういうふうに思うのでしょうか。」
「どうですかね。金石があなたという人間をどういう風に見ていたか、小生が勝手に想像しているだけかも知れない。」
「ーーなんという組織でしょうか?」
「はい。まあ名前がないというのが正解だとは思いますが、会話の都合上、エックス(X)とかエス(S)、という言われ方をまれにしますので、今日はそういうエス(S)という文字に仮称しましょう。」
「……。」
「ご存じでしょうか?もちろん呼び方はいろいろあると思います。いや、金石から聞いたかどうかではなく、世の中に溢れるそういう、陰謀論周辺の言葉を、聞いたことはございませんか?なにせ、太平洋戦争の頃まで遡るような、そういう話でございますから。」
「どうだろう。エスっていうのは初耳です。」
「本当ですか。」
「はい。初耳だと、思います。」
 エス。
 わたしはまた嘘をついていた。。
 金石がバーニコルソンのカウンターで語ったのはそういう組織だったはずだ。ただ、名前で呼ばなかった気がする。彼ら、という言い方だったかもしれない。ただ、わたしはそういう組織の周辺を、気になって自分で調べたこともある。通称がエックスとか、エスだという組織はWEBの上で様々な形で語られていた。
 金石がわたしに話した組織は真新しいことでもなかった。過去、巨大な権力に対峙した小市民が隠密に作った、戦前から存在する市井ネットワークのことだった。しばしば、共産党活動だとされることが多いが事実は違う。戦前の反政府分子や、文学作品に共産党関連の表現が多かったり、特別高等警察に逮捕され処刑されたりした共産党系の作家の印象が強いが、実際は特定の思想ではなく、あくまで体制への疑問をもとに、出版や、文筆業の人間が中心に始めた連絡網、というのが本当らしい。いずれにせよ諸説ある類だ。
「戦前の、反体制の組織ですよね。」
 わたしは金石からではなく、どこかで聞きました、という態度で返事をした。又兵衛は静かにわたしの目を見てから下を向いて、押し黙った。この日の会話は、沈黙が声より多数を占めた。そういう会話には重要な情報が往来しやすい。
 しばらくして、又兵衛は茶を飲み込みながら、
「ブラックホールをご存知ですか?」
 と、唐突に言った。
「ブラックホール、という言葉は知っているが、物理の方程式は知らない」
「私も、物理には詳しくないですよ。」
「そうですか。」
「ただ、ブラックホールというのは、光さえ外に出て行くことができないそうです。光を飲み込んで存在さえ消してしまうんです。だから望遠鏡で外から見ると何もない黒にしか見えないんです。周辺にいるものを全て飲み込む。つまりですね、組織...

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