百五六 大切な別れ (レイナ)
透明で真っ白な世界がある。何の前提もない、自分の心の中だけの場所。記憶の中で、大切な部分だけを再現しようとする場所。水平線まで真っ白に無が続いていく世界の中に、大切な自分の思い出だけが再生される。自分が苦しんだ時、幾度も幾度も再生してきた、記憶だ。
小さなテーブルに、椅子が二つだけあって、その一つにレイナは座っている。
強く目を閉じてから、八秒ほど数える。
そうして目を開けるとそこに節子さんがいる。
「ご飯、食べましょう。」
会話が始まれば、レイナは大丈夫だと信じている。
白い世界に、言葉がはじまる。
施設の大人たちとの会話ではなく、節子さんとの会話。
自分を理解して汲み取ってくれる言葉。
あれは、いつのことだろうか。
その日、節子さんは少し体調が悪そうだった。
少しだけ痩せたとおもった。
そのことを隠すように、お化粧を上手にしていて、綺麗だった。
とても美人で素敵だった。
「ピアスをしている?」
「そう。昔ね、旦那さんに、買ってもらったの。」
「旦那さんがいるの?」
「そう。」
「どんな人?」
「そうね。勝手な人だからピアスを開けてもいないのに、先に買ってしまったの。」
「プレゼント?嬉しい?それでピアスを開けたの?」
「そうね。意外と、楽しい経験だったわ。順番は逆だったけどね。プレゼントされなければ経験しなかったのだから。人生なんてわからないわね。」
「レイナは旦那さんはいない」
「大人になったらね。好きな人ができた時に考えれば良いわ。」
「好きな人?」
「そう。無理しなくて良いのよ。自然とそういう人が出来るから。」
「ほんとう?」
「あなたが、ちゃんと暮らしていれば、必ず出逢います。安心して。」
「ちゃんと暮らす?」
「そう。いつか、この施設から出る日が来ます。それでも今まで通り、いろんな本を読んだり、あなたの好きなことを一生懸命やり続けていれば必ず、あなたを愛し尊敬する人と出逢います。」
「……。」
「あなたにはね、ちゃんと才能がある。あなたの人間としての才能を愛してくれる人がきっとたくさんいるわ。わたしにははっきりわかる。」
「ほんとうに?」
「ほんとうよ。」
節子さんは、その日を最後に、施設に来なくなったーー。
会えない日が続くうちに、一つの予感がやってきた。節子さんと出会う前の、あの独りの気持ちに戻って、落ち着かない自分がまたやってくる、と思ったのだ。誰も信じられない不信の気持ちが集まって、自分を鉄の山が押し潰すような毎日にまた戻るような、気がしたのだ。
でもそうならなかった。
レイナは自分が変化をしていたことに少しだけ気づいた。
単純に落ち着かなくなると思っていた自分が、しっかり立ち止まり、前へ向かうようにしている。たとえば、レイナは節子さんに会うための、自分に対する努力を始めた。自暴自棄になるのではなく節子さんが教えてくれた努力を始めたのだーー。レイナは施設の中の自分の評価点を大人がつけてるのは知っていた。知っていて、無視をしていた。でも、評価点を上げると外出の許可が出るのも同じくレイナは知っている。外出の許可ーー。そうしたら節子さんと会えるかもしれない。渋谷の街は広すぎるし電車は遠いけど、節子さんが来れないなら自分で探せば良い。
その評価点のために、大人たちが求める物事を想定した。もう大体のことは分かっている。まずは、事をあらだてて欲しくない大人の気持ちに合わせて生活すればいい。それだけで点数が上がるはずだ。
時間はいくらでもあった。施設の中で、レイナは、読書ばかりした。本をたくさん読んだのを、ノートに書いて、並べた。読書ノートはいつも、節子さんに見せていたから、そのことをしっかりと続けた。レイナは今も、読書のノートをつけている。心が一番落ち着くノートの作業ーー。
そうしてある日
「このノートはお勉強のノートです。節子さんとの約束だから、もし出来れば届けてください。」
と施設の大人たちに伝えた。ノートは大人たちが預かってくれた。多分届けたりはしないのは分かっている。それでも良い。読んだ本の名前と感想を節子さんに話すのが好きだった。話せなくても、書いた文字をそこに収める事で自分は節子さんと話をした気持ちになれる。きっといつか読んでくれるはずだ、と思ってノートを提出するだけで、レイナの心ははっきりと落ち着いた。
「新しい自分を始めればいい。」
節子さんはいつも、そう言っていた。あなたには才能があるから、新しいことをはじめて、新しい自分に出会っていくといい。自分を間違った枠にはめないでいい。
「才能があるのよ」
その言葉は、美しい歌声のように遠くに静かに響いていた。
節子さんは何日経っても来なかった。
夏が終わって、秋が来て、雪が降った後も。
節子さんのことを、誰も教えてくれなかった。
それは、意図的だったらしい。
施設の大人たちは節子さんとレイナが打ち解けていた事を知っていて、何かの環境変化や事実で、レイナという人間が「過去の記録」のような方向に戻ってしまうことをきっと恐れたのだと思う。無理もない、と思う。そういう「記録」がレイナにはあるのだ。それが真実かどうかも突き止める方法はないけども。レイナがいた密室で、母が死んでいた記録ーー。母が死んだ原因となる凶器にはレイナの指紋があったという「記録」ーー。詳しくは知らない。でもそうでなければ、こんな施設に何年も入れられたりはしないと思う。少なくともそういう事件があった。でも事実がそうだとは限らない。少なくともレイナにはそんな「記憶」はない。でもそれをいくら言ってもどうにもならないことも知っている。
会えない時間がつづいたあとに節子さんから手紙が届いた。
手書きのとても長い手紙だった。
その文字は、レイナにたくさんの文字を教えてくれた達筆の節子さんには思えないくらい、ネズミの文字になっていた。きっと、苦しい病気の中で、最後の力を振り絞り、書いたのだろうと思う。紙も所々が汚れたり、シワになったりしていた。
手紙は、会いに行けなくてごめんね、と始まっていた。自分は、どうやら病気で、万が一のことに備えて、手紙を書く、とはじまっていた。「あなたと出会ったのを、昨日のことのように覚えています。一人っきりで私を見る眼差しは怯えていて、でもどこかで、この私を頼ってくれるまっすぐの気持ちが、強く強く感じられました。それは母を求めるようで、わたしは自分の産んだ子供を持ったことはありませんが、どこかで誰かの母になりたいという気持ちがあったのかもしれません。だからあなたがそういう(ごめんなさい勝手に)気持ちで、わたしを見つめてくれたのではないかと、突然思ったのです。
ひとりきりでその部屋に、大勢の大人に囲まれても、ただひとりでそこにいたあなたに、わたしは勝手な、眺めおろす側の気持ちで、あなたに向き合いました。わたしが母親がわりになってあげよう、と。世の中にひとりっきりになってしまったあなたの母親になってあげようと。」
そんな言葉がはじまりにあった。レイナは節子さんをいつも苦しめようと子供がいないことの質問をしていた自分を思い出す。手紙の文字と、自分が吐いた言葉とがしばしば重なる。で...