百五三 是永警部補 (銭谷警部補)
早乙女との時間や言葉を脳裏から消し去るのにタバコが五本は最低でも必要だった。頭を麻痺させるぐらいにニコチンを与えてからわたしは刑事部屋に戻った。人が出払っていて、閑散としていた。
大部屋のテーブルの端にわたしがいつも陣取ってきた場所がある。まだそこは誰か他の人間が占領はしていなかった。少し久しぶりに座った気がした。
席に座って少し落ち着くと、わたしは昨夜の浅草での老人とのことを思い返した。
昨夜、老人は酔狂の途中で勢いを失った。きゅうり(きっかけ)はどうあれ、その後は、不景気なありきたりの会話になった。金石やわたしの仕事の談義から遠ざかり、ぼんやりとし、どこかで不完全燃焼の空気になったあと、すぐに別れてしまった。飲み足りないわたしは、浅草で、逆に一人で痛飲となってしまったのだが。
老人は何かを隠している。それはわかった。でなければ、そもそもわたしの休日を尾行して浅草で待つようなことはしない。
何かを隠していると言えば、わたしも同じだ。
金石、いやKからのメールのことは言わなかった。老人が新人配属の頃から可愛がってきたというのに、
「金石には、連絡ができないでいる。」
という言葉でわたしは壁を作った。嘘は茫漠と響いた。実際にわたしから連絡は出来ていないから厳密には嘘ではないが、老獪な刑事にはわたしの心理的隠蔽は伝わっていると感じる。
ふたりの刑事は、お互い相手の本心を知ることができなかった。ただ、話したくもない人間だとしたら、私は最初から避けていたはずだ。むしろ老刑事と自分のあいだには何か直感があった。お互いどこかで思うことがあり、なにかがある。
又兵衛刑事は、定年で明日からのんびりと暮らそうという人間ではない。刑事の引退とは真逆の執拗さで、なにか捜査がまさに今行われてるかのような熱気さえあるのだ。仕掛り中の強い意志とでも言おうか。長い時間をかけてきたものへの執着とでも言おうか。何かが彼の目の奥にはある。そうでなければ、誰かの休日を待ち伏せしたりはしないし、店員がテーブルを揺らしたくらいで睨みつけたりはしないだろう。
私用の電話が鳴ったのはその時だった。
「銭谷か」
「是永か。どうだった。」
わたしは大部屋を見回し、流石に声が響くので携帯電話を持ったまま、再びタバコ場に向かった。
「色々忙しいのに悪いな、是永。」
「気にするな。もう現場ではない。で、槇村又兵衛のことを引き続きと、あと追加はK組のことだったな。」
是永も、もともとは根っからの刑事だ。メッセージとは違い電話の声は、彼の情熱がそこにあった。
「ああ。そうだ。K組のことは追加ですまん。」
わたしは又兵衛と別れた後の浅草で是永に連絡してK組の調査を追加で頼んだ。K組といえばまさにA署の管轄だからだ。
「K組ーー。本拠地 足立区・・・、構成員数百八十人、指定暴力団、独立系組織。」
是永は淡々と概略から述べた。
「昭和の時代、オイルショックのころにまあまあ拡大した。最盛期は構成員三〇〇人。その当時の清原組長というのが立派だったらしい。全国的な暴力団とは友好関係を結んで、この辺りでは珍しく独立系で過ごしている。」
「立派か。今時聞かない言葉だな。」
「まあな。清原組長はバブル崩壊ごろに亡くなって、それからはK組はゆっくり縮小していってる。最近は若手がいないって嘆く人間が多いらしい」
「どこも似たようなものだな。」
「若者がヤクザしたがる時代じゃないからな。老人ばかりが増えている。五十代が多い。若手が不足している。ほら、暴対法なんてのも変わってきてるのに、それに対応が出来ていない。」
「……。」
「五十代のヤクザ、こいつらはまあ、大抵、一九八十年台のつまり昭和の最後の暴走族上がりが多いのが特徴だな。不良が大量に暴力団に就職した昭和六十年ころ、どこもかしこも暴走族出ばかりだった。」
是永は、汚い言葉を話すように言った。
「で、又兵衛はそのころの暴対(四課)担当だったらしい。若くして活躍していた。」
K組の事務所は是永の所属するA署の所轄に点在する。又兵衛もA署であるから若いうちから色々な事件で人間関係があったのかもしれない。
「普通の話だな……。」
「まあ、そうだな。普通だ。だが、少し奇妙なことがないと言えば、ある」
「ある?」
「ああ。たしかに奇妙と言えば」
「このやくざが、最近身内で、ちょっと喧嘩を始めたんだ」
「けんか」
是永の話はそこで、彼らの行った、私刑や、リンチのようなものを紹介した又兵衛の話と繋がった。
「奇妙なのは、そう言う私刑が、表沙汰になったってことだ」
「……。」
「わかると思うが、やくざは身内の私刑をわざわざ通報したりしない。身内の小指をハサミで落として警察に行ったりはしないし、私刑して警察にその情報を流す必要は一切ないはずだ。」
又兵衛と同じ話を、是永は饒舌に話した。おそらく、是永にもここに何か気になる点があったのだろう。
「A署的にも少し困った事件だな、と言うことか。」
「警察もご存知の通り忙しいからな。今銭谷、お前が思っていることをA署の皆が思ったわけだ。そもそも、暴力団から市民を守るのが仕事なのに、暴力団同士の下世話な喧嘩の捜査をしている暇はない。捜査をしてみたところで誰もが口を破るわけもなく、逮捕してみたところで身内の小競り合いに税金を使うようなものだ。そういう放置だったものに手を上げたのがーー。」
是永はそこで少し間合いを置いた。
「銭谷。その手を上げたのが、今お前から質問を受けてる、槇村又兵衛刑事なんだよ。」
わたしはその言葉を予想していた。おそらく是永もわたしの対応を予想していたかもしれない。
「ふむ。なぜだろう。」
わたしは素直に聞いた。
「分からん。元マル暴の血なのかな。これは彼が少し力んだと聞いている」
「りきむ?」
「なぜ、こんな事件に手をあげるのか?ってことさ。」
「なるほど。」
「と言っても、又兵衛刑事には結構な実績というか過去の栄光もあるからな。もしかすると、なにか特殊なネタや期待値があるのかもしれない、そういえば、あのK組の亡くなった清原先代とも又兵衛刑事は色々あったはずだとか、みんな色々勘ぐった。もしかすると、大きな事件に繋がるネタかもしれないとか、すごい大捕物に繋がるのではと。」
「なるほど。」
「で、ここからは元々のご依頼の槇村又兵衛についての話になっていくのだがーー。」
「何から何まですまない。」
「よしてくれ。俺も警視庁の本丸にいる銭谷に協力できるのは楽しいってとこだ。で、槇村又兵衛さん、についてだが、彼は、この件で、共同作業者を募った。一人っきりじゃ尾行だってできないからな。で、当初は手をあげようかって言う若手もいたんだ。」
「ふむ。公金横領の噂があった人間に、か。」
「そうだ。実はA署ではあれは冤罪だと、そもそも嘘だっていう人が結構いたんだ。だから意外にも刑事の現場では、協力を前向きに構える人間は多かったそうだ。」
「ほう。それは初耳だ」
「あの人の人望だろうな。」
「それも初耳だ」
「ああ。意外かもだが現場からの人望はあった。」
わたしは是永がそこで言った言葉の内容で、幾つかのことが腑に落ちる気がした。
「でも結果、そのタイミ...