百四八 捜査一課長(銭谷警部補)
捜査一課課長室は扉が高かった。
わたしは近頃にない早い出勤をした。
「早乙女さん、先日はメールをもらいましたよね。」
そう言ったわたしの目を最初、早乙女捜査一課長は見なかった。見ないことでわたしは大概を理解した。
わたしは、早乙女の表情だけを確認したくて来た。目を見れば大体のことはわかるが、目を見れなくても似たようなものである。
「沙汰は、まだだな。」
早乙女は、太った体で朝から汗ばんで、忙しいんだという空気だけを作っていた。課長室にわたしがアポなしで入ることへの少しの不満もありそうだった。
「なるほど、わかりました。」
わたしは世間話もせず、すぐに退出することにした。
一瞬顔を見れば十分だ。わたしの人事について、まだ特に重要な変化が起きている様子はなかった。そうと判るとこの部屋を早く出たいと思った。過去に同じ釜の飯を食った早乙女が、雲上人の捜査一課課長だ、という別物の空気をさせる空間が、嫌なのかもしれない。無論、本人は何も変えていない、という態度でいるが、それが余計に鼻につく。
「失礼しました。少し、メールの書き方が気になっただけなので。」
わたしが席にも座らずにそういって、退路へと向かうと、
「ゼニ。」
と、古い呼び方で、背中を白い声が追ってきた。
「……。」
「ゼニ。最近はどうしてるんだ?」
呼び方を昔に戻すのは懐柔の一種でこちらの暴走を止めようとする気持ちの露呈でもある。暇にさせると、過去の事件、六本木やそのほかの捜査をまた勝手に始めるだろうと早乙女は思っている。そしてそれは、ある程度は当たっている。
「いや、べつに。ただ、沙汰を待ってますよ。」
わたしは嘘をついた。
「うむ」
「……。」
「おとなしくしておけよ。」
メールにもあった文言だった。わたしは引っかかった。
「おとなしくする、というのは、少し深い意味があるようですが。」
「そんなことはない。ただ、言葉通りだよ。」
「警官の職務はひとつだけ、犯罪を暴くことですよね。」
わたしが綺麗事をいうと、早乙女は機嫌を損ねた様子で、
「そうだな。」
とだけ言った。言葉と逆の表情がそこにある。
「以前から申し上げている通り、わたしはそういう論理でしか動けませんからね。」
「そうだったな。」
「では、失礼します。」
わたしが早く去りたいのだと、空気を出すと、早乙女は
「銭谷。全員がその理想論では無理だぞ。組織で動いているからな。」
「……。」
「わかってくれ。お前が現場に出たい気持ちは誰よりわかってるつもりだ。だが刑事そのものを、させられなくなってしまっては元も子もないだろう。」
わたしは、大部屋に戻る廊下に出た。
歩きながら少しずつ、わたしは憂鬱になった。早乙女の最後の言葉が、静かな脅しになっていたからだ。言葉の上では労いを言っている。しかし本質は違う。逆なのだ。「刑事そのものをさせられなくしたくない」というのは、つまり、最悪の場合刑事の現職を取り上げるということだ。やはりメールも脅しだった。文面として残しても人事的脅迫にならない線を意識した、官僚らしい警告だったのだ。刑事の現場では大した実績もなかったくせに、官僚らしい技や用語ばかり覚えやがって。
昔から、犯罪捜査の世界では早乙女の評価はずいぶん低かった。幾つもの事件を早乙女係長でなく、その下の現場の刑事たちが解決してきた。捜査現場では圧倒的に現場の刑事の力が上だった。俊敏に、迅速に、圧倒的な先手で動いた。対して早乙女は、太った体で汗ばんで、初手を悩みながら席に座ってるだけだった。何をしても判断は遅かったし、上層部に確認などをし始めるとただ足を引っ張るだけだった。犯人が刻一刻と逃げていく現場などでは上層部のご機嫌など伺っている暇はない。ノロマは致命傷だった。
ただノロマで現場に弱い係長のおかげで、若い我々の権限は結果として相対的に大きくなった。報告してもたいして良いアイデアも降りてこない係長への報告をサボるせいで、結果として現場の迅速な判断は増えた。現場の判断が早いだけが理由ではなかったけども、早乙女殺人二係は、多くの事件を早乙女への報告や判断を経ずに解決し続けた。結果として成績は群を抜くようになった。早乙女係長を現場に関わらせずに成績を収めるーーいつしかその中心が、わたしになっていた。
ただただ現場の捜査に邁進する日々は幸福だった、と今は思う。
その間、早乙女係長が、その手柄を細かく幹部連に報告して、人事的評価を肥やし、課長に上り詰めて行こうとしてることは気にも止めなかった。いや、わたしに至っては、いつも蚊帳の外にしていた早乙女が喜んでくれるならそれも良いとさえ思っていた。多くの現場は、犯人を逮捕する喜びがあるだけで出世の計算など後回しなのだ。そんな計算をしてたら捜査は進まない。捜査の現場では一瞬一秒が勝負で、肩書きの計算などはないに等しい。ただ犯人を捕まえるだけで満足だった。
捜査一課長は我々ノンキャリアの警察官が登り詰める最高峰の「肩書き」である。早乙女は上り詰めたのだ。上り詰めてしまえば組織全部が自分のものになる。生意気で報告もない出身母体二係の刑事だけの係長ではない。特定の刑事係に頼る必要はない。ふとわたしが早乙女と殆ど会話していなかったのに気がついたのは、彼が捜査一課長の手前の役職に昇進して二年ほど経った頃だった。それまでは毎日のように顔を合わせていた間柄だったのだが、もう我々には会話さえなくなっていた。早乙女はもっともっと自分の言うことを聞く部下を、大勢手に入れはじめ、生意気ばかりで報告もない面倒なかつての部下との関わりを少しずつ減らしたように見えた。
そして六本木の事件が起きた。
やはり、太刀川の事件は途中で、風向きは変わったと思う。
あの事件で、警察組織は何らかの力を受けた。圧力があった。圧力がなかったと考える方が不自然だ。
不自然な圧力があるとすれば、その圧力は、何らかの形で警視総監のような雲上人から現場に降りる。その中継点として、早乙女の位置がある。太刀川の捜査本部を途中解散させ、金石が失踪したまさにその翌年、早乙女は念願の捜査一課長に昇進している。
雲上人になっていく早乙女の論理と、当時の金石やわたしの感覚は、恐ろしく乖離していた。言葉を気にせずに言えば、警察組織にとって、我々は危険だった。なぜなら、我々には捜査の現場しかなかったからだ。現場には人間の死がある。我々は死の尊厳を優先していた。警察組織を守るより死者の真実を優先していた。
「警視総監でも躊躇なく逮捕する。」
それが、金石の口癖だった。わたしも同じだと思っている。
早乙女の言葉を借りればわたしも金石も狂っていた、ということになるだろう。