百四三 浅草の夜(銭谷警部補)
浅草は夕暮れを終わらせ夜の時間を始めていた。赤提灯は暗闇に似合うようにできている。黄色い屋台も辺りが暗くなって初めて温もりが広がる。浅草寺の裏店だった。
話題は別にして、わたしはどこかに感じはじめた老刑事への親近感で酒を煽っていた。そしてどの酒も、ある程度は人間同士の何らかの距離を近づけたりはする。我々は昨日の会話を忘れたかのように、浅草のこととか昼から飲む話のことを語り合った。
「酒に酔いましたね。」
だいぶ酒を嗜んでから、老刑事はようやく、
「銭谷警部補は、金石と一緒に、例の捜査をしていたのですよね?」
と今日初めて、金石の名前を出した。
「まあ、そうですね……。」
「奴は、どうでしたか?同世代から見て。」
同世代といえば、そういう言い方になるだろう。
「いえね。A署で私は奴と上下だったんで。あいつが新人の時に私の下にきたんで、箸の上げ下げから教えたようなもんなんですよ。それが行方知れずだっていうんだから。」
金石の刑事人生の最初が、この老人だったのか、とわたしは思いながらホッピーを唇に当てていた。
「しかしねえ。もう二十年も昔になるのか。歳をとるはずです。」
「金石は…。」
「はい?」
「金石は、A署ではどんな刑事だったんですか」
「はは。それは最近まで一緒だった銭谷警部補の方がお詳しいとは思いますが。」
詳しくはない。ほとんど仕事のことだけの会話だった。やつの住所も知らないし、随分長い時間を共にしたが、家族がいるのかも知らなかった。プライベートの会話をしない人間だった。
「身体が大きくてね。」
「それは、わかる」
酒らしい冗談を叩きながら、我々は酒を飲んだ。
「いい刑事でしたね。」
それも、わかる。金石のようなある意味警視庁での中のバランスを顧みない捜査姿勢はどこかで人間の闇を暴いてしまう。そのせいで、身が引き締まることが幾度もあった。
酔っぱらった、といいながら、又兵衛はレモンサワーを煽った。酔った勢いの言葉だというのが、建前としてあるようだった。典型的に酔った酒飲みの表情で、ふと、それまでの眼力を変えたような気がした。リスのような瞳が、猟犬のような冷たさを一瞬見せた、と思った時に、
「そういえば、金石は、何か特殊なことをいいませんでしたか?」
と、老刑事は言って、真っ直ぐわたしを見た。
「特殊?」
「ええ。なにか、銭谷さんに言ったりしませんでしたかね。」
酒を飲む前は、埼玉のヤクザの捜査の協力が建前だった。その協力依頼に嘘はないと思うが、どうしても又兵衛老人が繋げようとする点と線の中に金石がいて、その金石の周辺にこそ、会話の目指すべき場所があるようにおもえてしまう。
「まあ、酔った勢いですがね。銭谷さんは金石とは結局のところ、どうだったのかなと思ったりしたのですよ。」
又兵衛はレモンサワーを煽ってから机にごつんと置いてそう言った。
「どうと言われても。」
「いや、まあ、困るとは思いますがねえ。勢いの会話です。」
「うむ。」
「当然話せることと話せないことがある。もちろん話せないことを聞きたいのではないです。あの金石が、本庁でどんなふうに仕事を回していたのか、その切れ端でいいんですがね。」
「なるほど。」
「まあ、最初の教育担当としての、エゴでしかないんですが。」
「なるほど、そうですね。」
「まあ酒飲み話ということでね。」
「まあ、あいつと最初に組んだのは、たしかいまから八年ほど前だったかな。」
「へえ、八年前ですかあ。」
わたしも少し酔っていた。酔いに重ねて、少し金石のこともと思ったその時だった。店員が皿にきゅうりを載せて持ってきた。忙しい店員はその時少し雑で、まるで見事に会話の腰を折るように、テーブルの角に太ももを当てた。いわゆるモモカンだ。テーブルから危うく酒やきゅうりが落ちるところだった。わたしは、その雑さが気になり会話の調子が崩れた。言おうとしていた言葉を忘れた格好になった。テーブルの上は静かになった。
すると、又兵衛老人は、
「ちゃんとしなきゃ、店員さん。」
そう言って、少し店員を大人気なく睨んだ。わたしははっとした。それは明らかにさっきまでの酩酊とは違う冷静さだった。酒に酔って話す空気とは一切違った、計算と目的のある表情だった。会話のリズムを狂わせたきゅうりの置き場所に強い恨みさえ言ってるような一瞬。しかしそれを、すぐさま隠すような気遣いでまた明るく、
「いやあ、いい天気ですね、青空の下でサワーってのは。楽しい」
と言って、又兵衛は元の会話の雰囲気に戻そうとした。しかし、わたしの方は、きっかけを失い、何かと構えてしまっていた。話そうとしていた金石のことも、躊躇いに戻った。
わたしが金石のことを語るのに躊躇するのには感傷以外にも理由がある。
金石は、何も言わずに突然いなくなった。その直前までわたしと、捜査本部で何をしていたのか、薄々警察内では気づかれている。警察内では表向き、仕事が嫌になってただ辞めたような処理がなされたが、上層部は誰もそんなふうに思ってはいない。金石が通常の捜査では得難い情報を手にしていたと疑っている。例えば金石は警察以外の別の場所(そんざい)に向かった可能性がある。警察を辞めて、別の組織に入ったのかもしれない。どんな形かはどうでもいい。自分の持つ情報を武器にして生きている可能性がある限り、警察組織には重大な問題が生じる。
十分あり得ることだった。
奴は六本木の富裕層の人脈にも刑事であることを隠して別人格で入り込んでいた。幾人かの担当者を使っていた可能性もある。金石が警察の内部の罪状を把握しているのであれば、奴の性格上途中で諦めたりはしない。別の組織に参加しその情報を最大限活用するに決まっている。当然上層部は気になっているはずだ。何も言わないが、早乙女は明らかに金石とわたしのことを気にしてきた。わたしがどこかで連絡をとっていないかを疑っている。
だからこそ、まだ会ったばかりのこの老人に金石のことを話すのは危険なのだ。
万が一、彼が裏切り者で、早乙女と繋がっていれば、金石が危険なことになる。わたしは、きゅうりがテーブルを揺らした時に、我に帰った老刑事の表情を思い返した。店員のきゅうりが、絶妙に老刑事とわたしの邂逅を失わせたのは事実だ。会話の間合いを失って、我々の酒の勢いがぴったりとやんだ。
老刑事は機会を逸したのを理解してか、その後は酒を浴びるようには飲まなかった。しばらくぼんやりとした会話をした後、
「明日には資料を本庁にお持ちしますね。」
と例のリスの瞳を再び輝かせながら言った。
「明日?本庁に?」
「ええ。貴殿に最初にお話ししました、埼玉のヤクザの件です。ご興味いただき、お時間も融通がきくかも、ということだったので。」
「……しかし。」
「税金を無駄使いしてはなりません。秒も惜しんで、刑事の業に邁進しましょう。才能を大切にせねばなりません。」
又兵衛は時折繰り返してきた台詞をはっきりとまた言った。酔った勢いで金石の話をすることはやめたらしく、屋台での後半は殆どそちらへの話題の誘導は感じなかった。