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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 138 章 百三五 浅草  (銭谷警部補)

百三五 浅草  (銭谷警部補)

 桟橋から降りると、老刑事はどこからともなくわたしを見つけ、声をかけた。
「休日ですか?」
 白々しい言葉に、わたしは黙っていた。黒目が強い。やはり悪い人間には見えづらい。
 無視するわたしに、老刑事は開き直った声で挨拶を繰り返した。
「こんにちは。」
「本当に偶然ですか?」
 わたしは独り言のようにそう呟いた。
「おや。何か感じられることでもございましたでしょうか。」
「……。」
 ある一定の隠蔽的な態度がこの老刑事にはあったことや、公金横領という言葉が脳裏をよぎる。
「お暇だという噂を聞きまして。優秀な人間がお暇なのは、警察の損失ですから」
「わたしが?」
「ええ。」
「いったい誰から聞いたのですか。」
 聞いて野暮だと思った。いい年齢の捜査員がパワハラというのは、噂話としては秀逸だろう。警察組織というのは情報が好きで、結果噂話のようなものが溢れている。そういう場所から、口の軽い人間はたどりやすい。
「とある偶然ですよ。」
「偶然?」
「所轄の退職者にまで本庁の極秘事項は降りては来ませんからね。」
「退職者、ですか。」
 老刑事は引き続き、愛嬌のある黒目でわたしを見つめた。退職ではなく、横領で懲戒免職という言葉が再びわたしの脳を横切る。
 その時、ふと何故か、早乙女の「大人しくしておけ」という言葉を思い出した。突然、昔の呼び方(ゼニさん)で話してみたり、わたしへの思いやりを建前にしているその空気の気持ち悪さが早乙女らしいと思う。彼だけではない。官僚的な人間は大抵、優しさを含んだ言葉というものを商売道具にし始める。しかしそれは会話技術であり、人間の本来持つ優しさとは別である。むしろ全く逆だ、ということに気がつくのにわたしは二十年近い時間をすぎてしまった。その失敗を老刑事の真っ黒で純朴な瞳を見て思い出した。早乙女とは違う暖かい瞳だった。
 私たちはゆっくりと歩き出した。
 不思議と歩く速度について、どちらかが先に出ることも遅れると言うこともなかった。並んで歩く相性はよかった。浅草寺の大きな赤提灯を右に折れると、小さな赤や黄の提灯が並ぶ仲見世に入った。
「あなたみたいな立派な人が暇をされていると言う事は、国家的には問題ですよね。」
 又兵衛はまた同じ話を繰り返した。
「前段は、わかった。それで私に何をさせたいのですか?」
 私はせっかちだ。元来、資料のページを後から読む位の人間である。それはどんなに暇でも変わらない。
 わたしが急かすのをみて、又兵衛は少し微笑して
「ふむ。仕事は結論から、ですね。では。」
「……。」
「こういう襲撃の話がありまして。」
 老刑事が出したのは、草むらの写真だった。中年男の死体らしきものがあった。
 私はあまり興味を持てなかった。
「事件か」
「まあ、少し特殊です。」
「おみやになってるのか?」
 お宮となってなければA署が捜査をするだろう。
「いいえ」
「……。」
「実は、死んでいないんですよ」
 写真は三枚あった。どれも別人である。
「これは、鑑識のものではないな。」
「ええ。身内で撮影したんでしょうね。私刑ですから」
「……。」
「味方同士の小競り合い、ともいいましょうか」
「小競り合い」
「ヤクザもの同士の小競り合いか」
 写真の所々にその筋らしい刺青が垣間見えた。
「まあそうです。」
「なぜ小競り合いが外に出る?」
 わたしは思わずそういった。老刑事はわたしをなるほどという表情で見ながら
「その通りです。ヤクザが、身内のこんな写真を外に出すなんてことは聞いたことがない。いや、晒せば警察に尻尾掴まれるリスクだけが増える。そんなことをする意味がない。そうなんです。だから、この問題はただの私刑ではない、というのが小生の見立てです。」
 又兵衛は少し言葉を強めた。
 わたしはすこし、潮が引くような気持ちになって
「まあ、理屈ではそうなるだろう。」
 とだけ言った。
 わたしは興味が湧かないままだった。小市民が反社会の人間に何かをされたのなら、まだしも、くだらない奴らの身内の小競り合いを、警察が税金を使って時間を使うわけにはいかない。
「はい。ヤクザもの同士のよく分からない私刑です。A署で当然後回しになりました。」
 又兵衛は先を読んでそう言った。
 再びわたしは、老刑事にリスのような眼差しで見つめ返された。静かな眼差しだった。ただその眼には警察官が出世のために始める、人間を損得で見る空気が全くなかった。わたしをその場から去らせない唯一の理由がそこにあった。
 又兵衛がわたしに話したのはおおよそ以下のような内容であった。
 埼玉から綾瀬の界隈を縄張りにしてる、反社会組織に、K組という暴力団がある。この組織の中で身内のトラブルが続いている、という。通常暴力団は、縄張りを争ったり、後継者争いなどで抗争する。どちらも、抗争に勝てば、現金収入のご褒美がある。しかし、K組の抗争において、その気配がないらしい。又兵衛はそのことに注目していた。例えば、襲撃された写真の人間は二人とも、利権に関わるポストを持っていない。組の中でも重要視されていない老いたヤクザである。それがなぜか私刑に遭っている。なおかつその写真がこうやってA署にまで届けられているように、暴力団の抗争とはおよそ思えない奇妙さがある。
 又兵衛は淡々と、説明を続けたが、わたしはどこかで、集中力を失いはじめた。
 どうみてもつまらない事件だった。
 うだつの上がらぬヤクザものの痴話喧嘩だろう。老人同士の意固地や嫉妬がこういう痴話喧嘩を起こすこともあるだろう。
「この事件。これはそもそも事件なのですか?」
 わたしは仲見世の列を眺めながらそう言った。
「……。」
「当然、被害届とかはないですね。」
「ええ。」
「失礼ですが、これを、わたしが?」
 警視庁本庁の刑事が対応する意味があるのか?という空気をわたしは出した。以前ならそれが自然だった。しかしそう言っておきながら、自分には何も権限は既にないことが心の底に跳ね返ってきた。わたしは、来月にはどこかの署に左遷され、刑事でさえない仕事をしているかもしれない。こんな痴話喧嘩でもありがたく首を突っ込むしかないような立場にあるかもしれない。
「ははは。」
 老人は嗤った。
「なにがおかしい。」
「いえ、当然でしょうね。警視庁のエリートが触るべき仕事ではない」
「馬鹿にしていますか?」
「わたしは馬鹿な人間には会いません。」
 やはり、老刑事はわたしの環境を知っている。パワハラで人事的な黄色信号が、警察組織の中で何を意味するのかも。
「この事件を暇な時間を見てわたしがやるべきだと。」
「ええ。そうです。」
「なぜですか。」
「それは、いずれわかります。」
「どういうことだ。」
「この私刑はある大きな事件に繋がっている可能性があるからです。」
「この?ヤクザの末端の痴話喧嘩がか?」
「今はまだ言えません。」
「ちゃんとした説明をしてくれ。」
「もう少しだけ、銭谷警部補が関わっていただき次第、説明申し上げますので。」
 そう言ったきり、老刑事は饒舌だった言葉をとめてしまった。
 老刑事は何かを隠している。わたしは老刑事と金石が同じA署にいたことを反芻した。今日は、一度も金石の話題に...

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