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星空出版 HOSHIZORA PRESS

ミステリー・連載

パラダイム

下代沢侯二
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第 134 章 百三十一 警視庁六階(石原里見巡査)

百三十一 警視庁六階(石原里見巡査)

 石原は本庁に入ると六階の自席に向かった。
 久々に、気が晴れた感じでフロアを歩けるのは、今朝の仕事がかなり自信を持てたものだったからだ。機材も順調だったし太刀川含めて誰も撮影されたことに気がついた人間はいないはずだ。そのデータが自分個人のクラウドの中に既にある。荷物をまとめてロッカーに置いて執務室に入った。
 いくつかの雑務をはじめると、後ろのスペースで雑談が聞こえた。束の間の事件がふと少なくなる時がある。そういう狭間は、刑事たちのちょっとした休息日でもある。楽しそうに会話しているのは小板橋だった。もともと会話が好きなのである。
「…へえ。銭谷さんが…。」
 石原はふと気になった。
「…そうなんだ…。」
 パソコンを静かに叩きながら、石原は指先ではなく耳のほうに集中していた。自分に関わることだろうか?ただ挨拶もしたので、彼らは石原が室内に入ってきたのには気がついている。自分に関わりがある話題なら会話を止めるはずだ。
「老人?」
「A署の人間さ。…俺は知ってる」
「ああ、小板橋さんも、A署でしたよね…」
「…なんでそんな人と?」
 会話は続けられたが、石原里美が気がつけたのはそれくらいだった。老人という言葉だけが少し残った。引き続き、パソコンだけを見つめながら、背後の声を拾おうとしたが、その後は声は絞られてしまい、ほとんど会話も止まっているように思えた。
 石原は幾つかの報告書の整理の方に集中し、溜まっている作業の方を一気に処理しようとしていた。雑務は早々に終わらせて、今朝撮影したものをゆっくりと分析したかった。
 ふと、背後に気配がした。話をやめたのか、当の小板橋が、石原に声をかけてきた。
「おはよう。」
「おはようございます」
「突然明日、だけど、若手の送別会をやるんだ、顔出せないかな。」
「送別会ですか。」
 あまり話したことはない、交通課の人間が、H署に移動になるのだった。小板橋はこういう懇親会を積極的に開催して幹事を務めることが多い。
 石原は迷った。飲んでる暇はない。が、なんとなくこういうものに顔を出さないといろいろな意味で良くないような気もしている。同調的な理由というか、まだ転配属されたばかりの石原には懇親会も立派な仕事かもしれない。
「まあ、いろいろあるからね。」
 石原の心理を察してか、小板橋は含みを持たせたような言い方をした。
「いろいろですか?」
「深い意味はない。飲みの席で話したいこともあるってことさ。」
 小板橋は間合いのある表情をした。何故か先日、小板橋と銭谷警部補が太刀川を事情聴取した際のことを、今ここで言い出すのではないかという気配があった。石原が銭谷警部補とその後、何か話していないか?と言う言葉と一緒に。
「はい。」
 石原は気づかれないように唾を飲んだ。何もなかったように小板橋を見て返している。すると小板橋は、
「じゃあ、明日。忙しいだろうから、少し顔出してくれればいいさ。最初から最後までいなくたっていい。」
 と、幹事らしく気を遣ったことだけ言った。小板橋の表情には銭谷のような悩ましさはほとんどなかった。純粋に、この警視庁ビルでの人間関係を楽しんでいるようにさえ思えた。
「警察もチームだからな。懇親会も大事だろう。」
 言葉が爽やかだった。説明も明確だった。歩き去る小板橋の背中を見ながら、石原はなぜか昨日の銭谷のことを思い返していた。本郷三丁目駅の周辺を何度も周回して歩きながら、金石元警部補についての説明を懸命に言葉を探して悩んでいた銭谷警部補とはまるで種類の違う背中だった。

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